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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその9ー桶狭間に清州の重臣達は参加したのか?

熱田神宮を辰の刻(午前7時~9時)に立った信長主従5騎+足軽200人は先ず鳴海城の付城つけじろである丹下砦に行き、そこから善照寺砦に入ります。信長は何のために丹下・善照寺砦に立ち寄ったのでしょうか?

信長公記』丹下・善照寺砦記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)

信長公記』には「御人ずう立られ」と書かれています。つまりここで砦の守備兵を自軍に加える為に立ち寄ったと言うことです。(図1の①)
では砦には何人ぐらいの兵士が籠っていたのでしょうか?

図2:善照寺砦跡2023年12月4日撮影

実際に善照寺砦跡を見てみると、標高15m直径50m程の小山でした。(図2)名古屋市緑区のホームページ(名古屋市:鳴海周辺のみどころ一覧4(緑区))では善照寺砦を「東西24間(43メートル)南北16間(29メートル)と伝えられ」と書かれています。これを長方形だと仮定すると面積は1247平方mとなります。
人が生活するのに必要な最低の面積が3畳約5平方mと言われていますので、これで計算すると最大収容人員は約250人となります。しかし砦ですので、ぎゅうぎゅうに人を詰め込んでは戦闘できません。以上を考えると善照寺砦の兵数は120人前後でしょう。
一方丹下砦は面積が書かれている史料は発見できなかったのですが「水野帯刀たてわき、山口ゑびの丞、柘植つげ玄播かみ、眞木興十郎、眞木宗十郎、伴十左衛門尉」の6人の武将が立て籠もっていたと書かれていますので、(図1の②)善照寺砦と同じく120人前後。また中島砦は梶川平左衛門のみが配置されてますので20人ぐらいと私は考えています。*1
とすると、中島砦に入った時の兵数は信長本体200人*2と合わせても500人に達しません。
しかし『信長公記』には「2千に満たない人数」(図1の③)と書かれていますので、少なくとも1500人ぐらいに膨れ上がっていたようです。
ここで清州の重臣達が遅ればせながら馳せ参じて来て合流したのでしょうか?それにしては人数が少なすぎます。歴史史料では味方の人数は少なく、敵の人数は多く記述することはよくあることですので、実際の信長軍は5千人ぐらいいたのでしょうか?*3しかし、『信長公記』には清州の重臣達の名は書かれていません。*4

図3:『信長公記』前田叉左記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)

書かれているのは前田叉左衛門(利家)等信長子飼いの兵達*5が首を持参して合流したことだけです。(図3の①)
ですので信長が中島砦に入るまでに合流したのは、砦の守備兵と清州から駆け付けた信長子飼いの兵達だけだと考えるべきです。そうすれば「二千に不足のご人籔」も納得のいく数字です。*6
いくさ国人領主クラスの武将が参戦する場合は、大名が事前に出陣要請をし、陣立てを決めておくのがこの時代の常識です。
確かに多くの戦いで信長が真っ先に出陣し、家臣達が慌てて後を追いかける場面が良くありますが、それは江戸時代に出版された軍記物の中での話であって、『信長公記』には子飼いの兵達が追っかけることはあっても、重臣達がそのような行動を取る姿が描かれている場面はありません。
以上の点から信長とともに戦ったのは丹下・善照寺・中島3砦の守備兵と信長子飼いの若武者達であって、柴田勝家丹羽長秀清州の重臣達は「桶狭間の戦いに」参戦していないと私は確信しています。*7

*1:佐久間兄弟は重臣なので一人で60名、丹下砦と中島砦の武将達は一人で20名の部下を引き連れて籠っていたと考えました。

*2:信長本体の兵数については前回(6月23日投稿)詳しく述べておりますので、そちらをご参照ください。

*3:2024年1月16日の投稿桶狭間検証その3ー信長と義元実際の兵力差は?において尾張の動員可能兵力を1万7千と論じてますので御一読下さい。只この時期は斎藤義龍と敵対関係であった為、南尾張に大軍を派遣するのは不可能のように思えます。

*4:太田牛一はどの合戦においても参加した武将は全てこまめに記述しています。名前が無いと言うことは、少なくとも牛一が知る限り、参陣していないと判断して良いぐらいこの点は徹底しています。

*5:この時期前田叉左衛門は信長から「御勘氣かんきこうむ」っていたので厳密には信長の小姓ではなく一浪人でした(図3の②)。

*6:桶狭間古戦場保存会の方々によると信長子飼いの兵は2千人程いたそうです。(3/6投稿の信長はどのようにして尾張を統一したのか?その4-父の代からの重臣達を屈服させた信長)を参照

*7:信長公記』には著者の太田牛一が「弓三張さんはり」の衆として常に信長に付き従っていたとの記述がある為、「桶狭間の戦い」にも参戦していた筈との説を良く見かけますが、私はどう考えても彼が桶狭間には従軍していたとは思えません。もし従軍していたなら牛一はもっと明確に「桶狭間の戦い」を描写していた筈です。それ程桶狭間に関する記述は彼らしくないあやふやな点だらけなのです。