ようこそケビンの部屋へ

自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

【補論】その2ー今川義元出陣の目的は何だったのか?

ここで話を『信長公記』から離れ、今川義元は何を目的で南尾張に出陣したのかを論じたいと思います。
小瀬甫庵が『甫庵信長記』で義元出兵の目的を「ここ今川義元ハ天下ヘ切テ上リ國家ノ邪路じゃじヲ正ントテ」と書いたため(図1)、戦前までは[上洛説]が主流でした。

図1:『甫庵信長記桶狭間記述始(国立国会図書館コレクション)

しかし、戦後『甫庵信長記』が問題視され、太田牛一の『信長公記』が研究され始めると、[上洛説]は否定され、いろいろな説が出始めました。
代表的なものを上げると①尾張制圧説②大高・鳴海城救援説③伊勢湾支配説等がありますが、私はどれも違うと考えています。
まず①[尾張制圧説]はあり得ません。戦国時代初期において一国を制圧するなんて、一度の戦闘で達成できる程簡単な物では無いです。*1尾張一国を制圧しようとするなら、まず南尾張知多半島を完全掌握した上で、尾張国人領主達に調略を仕掛けるのがこの時代の戦のやり方です。
次に②[大高・鳴海城救援説]ですが、当時の鳴海城・大高城はそんなに困窮していたのでしょうか?
確かに鳴海城は丹下・善照寺砦で、大高城は鷲津・丸根砦で封鎖されてるように見えますが

図2:鳴海・大高城と付城配置図

まず鳴海城は『信長公記』に「鳴海の城南は黒末の川とて入海潮の差引城下迄在之」と書かれており、城のすぐ南側が入海になっています。また付城つけじろの丹下・善照寺砦は鳴海城の北側にあるので南側の黒末川河口から容易に船で搬入できます。
大高城の方も、南側に氷上砦と正光寺砦があったとしても*2、水野氏が今川氏に対し敵対しない姿勢を見せ始めた時点で、砦は放棄されていた筈です。なので大高道から物資の搬入が可能です。(図2参照)
③[伊勢湾支配説]は伊勢湾の制海権を支配することにより海上から尾張に侵攻しようとしたり、津島・熱田湊を封鎖し、尾張の商経済を圧迫しようとしたとする説です。*3
確かに『信長公記』に「二の江の服部左京助が千艘程*4の船で黒末川河口に押し寄せた。」との記述がありますが(図3)、今川氏が海軍を持っているとの史料は無く、また義元は桶狭間まで陸路で進軍していますのでちょっと無理がありすぎると思います。

信長公記首巻』34~35P(史籍収攬収録町田本)

そもそも今川義元は誰と戦うつもりだったのでしょうか?
「えっ⁉織田信長に決まってるでしょ!」と皆さんおっしゃられると思いますが、丸根・鷲津砦を攻めても信長が出陣してくるとは限らないのです。(実際信長は丸根・鷲津が落ちた後に戦場に到達しています。)
また信長の居る清州まで攻める為には①で説明したように周到な準備が必要です。
更に尾張攻めには大きな障壁があります。刈谷城主水野信近と緒川城主水野信元の存在です。
桶狭間の戦い」時点では水野兄弟は今川に敵対する姿勢を見せていません(むしろ臣従する姿勢さえ見せています)が、かと言って義元の命に従って兵を出さなかったのは前回説明したとおりです。
尾張を制圧するには、今川義元は鷲津・丸根砦を落とした後、何を差し置いてもまず、水野兄弟を完全に屈服させなければいけないのです。
私は「義元出陣の目的は水野氏征伐である。」と考えています。

*1:信長公記天理本』や『甫庵信長記』では家臣達が清州城で籠城を信長に進言する記述がありますが、義元がすぐに清州まで攻めて来る筈はありません。これは平和になった江戸時代の感覚で書かれたからで、戦国時代に生きた人達は絶対にこんな事を書かないです。

*2:氷上砦と正光寺砦は存在を確認できていません。3月16日投稿「そして桶狭間へ」の記事の脚注2を参照

*3:橋場日月あきら氏が著書『新説桶狭間合戦』で津島・熱田の交易を圧迫しようとしたと述べてます。

なおこの本は2008年に第一刷が発行されていますが、162Pに『信長公記天理本』を引用する記述があり、著者の橋場氏は『愛知県史』で紹介される前に「天理本」をお読みになられているようです。

*4:国人領主が千艘の船を保持するなんて荒唐無稽すぎます。百艘でも多すぎで実際には20~30艘程度でしょう。船の種類もこの時代は戦専用の船はまだ無く、漁船又は交易船に弓衆などの戦闘員を乗せただけのものだと私は考えています。