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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその6ー義元は18日何をしていた?②

前々回「今川義元は5月18日沓掛で水野氏に対し懐柔工作を行っていた。」とする私説を披露しましたが、現在の私は別の考えを持っています。

図1:左:三河物語桶狭間記述書き下し文(雑史集続国民文庫)            右:原本表紙(次世代デジタルライブラリー)

大久保彦左衛門(忠教ただたか)*1が書いた『三河物語』(図1)では「永禄三年五月十九日(庚申かのえさる)に、義元は池りう(池鯉鮒ちりゅう)より段々に押而大高行」と書かれており、日付は違っていますが、戦う前に大高城に入ったとなっています。その後「引のくところに」と退陣する際に信長に襲撃されたと書かれています。
只、著者の大久保彦左衛門は永禄3年生まれの為桶狭間を体験していませんし、『三河物語』は歴史を記録した本と言うより自分の子孫達に「戦時の物の見方や心構え」を説いた教訓本に近い*2ので、信頼性は高くありません。
また『三河物語』のこの記述は江戸時代『桶狭間合戦記』にて山澄英竜が「義元は大高から桶狭間に後退するのはあり得ない。」と強く反論しました。
その理由が「丸根・鷲津砦を落としてもまだ鳴海の丹下・善照寺砦と中島砦が残されており、ここを攻めずに撤退する筈が無い。」と言う物でした。非常にもっともな説ですので、近年までは「義元大高入城説」は否定され続けてきました。
しかし最近になってかぎや散人氏や竹内元一氏等が「義元は18日大高城にいた。」との説を展開しました。*3
実は私も今では「今川義元は5月18日沓掛から大高城に入った。」と考えています。その理由は、

図2:『信長公記首巻』大高城兵糧入部分(改訂史籍収攬収録町田本)

信長公記首巻』では「十八日夜に入大高の城へ兵糧入無助様に十九日朝しおの満干を勘かへ取手を可はらう之旨必定」と書かれています。(図2)
私はこの中の「夜に入」の部分が気になって仕方がないのです。通説では「十八日夜になって大高の城に兵糧を入れ、援軍が来ない様に十九日朝に潮の満ち引きを考えて砦を攻撃してくること間違いなし。」と訳されています。
しかし「夜に入」「夜になって」と訳していいのでしょうか?ここは漢文調に「入」の後に(二)を「大高の城に」の後に(一)を入れて「夜に大高の城に入」と読めないでしょうか?次の「無助様」は「助け無き様に」と読んでるのですから。
そうすればこの一節は「(今川義元は)十八日の夜に大高城に入り、兵糧を入れ、助けが無い様に十九日朝に潮の満ち引きを考えて、砦を攻撃してくること間違いなし。」との意味になります。
つまり信長公記』は今川義元は5月18日夜に大高城に入った。」と書いていることになるのです。

*1:永禄3年(1560年)生まれ。江戸幕府旗本。時代劇で「天下のご意見番」として有名だが、これは江戸時代の歌舞伎が元になったもので全て創作です。

*2:彦左衛門は『三河物語』の奥書に「この本は子孫だけに向けて書いたもので門外不出にする」と記しています。

*3:かぎや散人氏が『現代語訳信長公記天理本首巻』

で、竹内元一氏が『桶狭間の戦い前夜の真実』でこの説を披露しておられます。特に竹内氏は『桶狭間合戦記』が何故義元が大高城にいたのを否定したのか等を非常に詳しく述べられており、大変参考になりました。