ようこそケビンの部屋へ

自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその7ー信長は清州城でなぜ評定を行わなかったのか?

前回までで「今川義元は永禄3年5月18日の夜には大高城にいた。」との説を論じてきました。
この説はまだ定説とはなってはいないですが、現在多くの歴史家達に支持されつつありますので、今後この説を前提に考察を進めていきたいと思います。

図1『信長公記首巻』清州城評定部分(史籍収攬収録町田本)

18日夕方丸根・鷲津砦守将佐久間大學と織田玄播*1から「19日朝(今川義元は)潮の満ち引きを考えて砦を攻撃してくること間違いなし。」との報告が清州城にもたらされ、織田家臣団の間に瞬く間に広がりました。
ここで問題の文が登場します。
「其夜の御はなし軍の行ハ努努無之」(信長はその夜の会議で戦の話を全くしなかった。)と書いてあります。(図1)
この記述に対し「信長は家臣達から今川方に桶狭間侵攻の秘策が漏れるのを恐れてわざと何も言わなかった。」との説を多く目にします。
しかし私はそう思いません。
まず、佐久間大學と織田玄播は何を期待して清州に注進してきたのでしょうか?もちろん信長の後詰ごづめ(救援)ですよね?
では鷲津・丸根砦に後詰する為には何時までに清州を出陣しなければいけないのか?

図2:清州城→丸根砦徒歩時間(グーグルアースで計測)

清州城から丸根砦までの徒歩時間をグーグルアースで計測してみると最短で21.1km徒歩4時間57分と出ました。(図2)
速足での行軍速度(時速6km)で計算しても約3時間30分かかります。
この時期の日の出は午前4時30分頃ですので、義元が日の出とともに丸根砦を攻めるのを防ぐためには午前1時までに清州を発つ必要があります。
深夜の行軍は実質ありえないので前日夜までに砦の近くまで進軍し、大高城にいる今川軍と対峙していなければいけないのです。
しかし、信長は前日夕方になっても出陣する素振りを見せません。*2
今川が織田領の南尾張まで進軍してきて、織田方の砦を攻撃しようとしているのに何の行動も起こさないことに対し、清州城の家臣達は「知慧ちえの鏡も曇とハ此の節也」と信長の無策を非難しています。
実際丸根・鷲津砦の近くに布陣しようにも後方には鳴海城が控えている為、挟み撃ちされてしまう危険があります。*3
信長は夜の会議で戦の話を全くしなかったのではなく、戦の話を全くできなかったのです。
この状況に織田家の家臣達より忸怩じくじたる思いではらわたが煮えくり返っている人物がいました。誰あろう織田信長その人です。

*1:織田秀敏。出自は諸説あるが一般的には信秀の父信定の弟で信長の大叔父とされている。wikipediaから抜粋

*2:なので佐久間大學と織田玄播は「明日朝には間違いなく今川軍は攻撃してきます。私達はどうすればいいんですか?」とのメッセージを信長に届けたのです。 通常敵が攻めて来るのが分かっていて戦うのが無理だと判断した場合は、人材の損失を最小限に抑える為、城(砦)を明け渡して撤退するのがこの時代の常識です。なのに信長は進軍もしないし、「撤収せよ」とも言いません。 つまり二人に「砦を枕に討死しろ」と言っているのに等しいのです。佐久間大學と織田玄播はどのような気持ちで今川軍と戦ったのでしょう?心中を察するに余りあります。

*3:本来なら義元が出陣の準備が始めたとの情報が入った時点で、どんな犠牲を払ってでも先制攻撃で鳴海城を落としてなければいけなかったのです。なのに信長は義元が進軍してくるまで何もしていません。一体いつ今川が攻めて来るとの情報を掴んだのでしょうか?信長の高い情報収集力が桶狭間の大勝に繋がったとの説をよく聞きますが、それならなぜ信長は迎え撃つ準備を何もしなかったのでしょうか?何を持って信長の情報収集力が高いと言っているのか私には全く理解できません。