ようこそケビンの部屋へ

自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

【補論】その3ー義元は満潮時に砦を攻撃していない。

前々回私は『信長公記』では「無助様に十九日朝しおの満干を勘かへ取手を可はらう之旨必定」と書いてあり、「(今川義元は)十八日の夜に大高城に入り、兵糧を入れ、助けが無い様に十九日朝に潮の満ち引きを考え、砦を攻撃してくること間違いなし。」と訳しました。
この文に対し、殆どの歴史家の先生方は「潮の満ち引きを考えて、満潮時に砦を攻撃してくる」と説明しています。

図1:『信長公記』砦攻撃注進記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)

確かに『信長公記』では後に「鹽満しおみちさし入御馬の通い是なく熱田よりかみ道をもみにもんでかけさせられ」との記述があり(図1の②)、信長は満潮で海沿いの道を通れず、熱田から丹下砦まで内陸の道(上の道)を通っていますので、整合性が取れているように見えます。しかし

図2:永禄3年5月19日の名古屋港潮汐表(カシオ高度計算サイトで検索)

永禄3年5月19日の満潮時刻を調べてみると満潮は8時35分となっています。(図2)
ところが『信長公記』では「案の定夜明方に佐久間大學・織田玄播より、(今川軍が)丸根・鷲津砦に攻めてきたとの報告がもたらされた。」と書かれています。(図1の①)
前回説明したように丸根・鷲津砦から清州城までは直線で21.1kmも離れているので、例え時速20km*1で走っても約1時間10分かかります。ましてや道も直線で無く、高低差もありますので、少なくとも1時間半はかかった筈です。
なので夜明け方に清州に「今川が砦に攻めかかってきた。」との報告があったと言うことは、深夜の3時頃から攻め始めたことになり、これはちょっとあり得ません。
この時期の日の出時刻は午前4時30分前後ですので、義元が丸根・鷲津を攻め始めたのは早くとも空が白み始める午前4時頃でしょう。そして5時半に砦からの報告が清州に届き、信長の清州出陣が午前6時だとその後の展開の辻褄つじつまも合います。
しかしそうだとすると、義元が砦を攻撃し始めたのは満潮時では無く、まだ潮が引いている時間帯になってしまうのです。
つまり「無助様に十九日朝しおの満干を勘かへ取手を可はらう之旨必定」は「助けが無い様に19日朝、潮の満ち引きを考えて(潮が引いているうちに)砦を攻撃してくること間違いなし。」となりますが、何故潮が引いているうちに攻撃すると助けが無いのでしょうか?全く意味が通じません。
但し、「助」に「妨害をする」と言うような意味があればうまく訳せます。
つまり「(今川義元は)18日夜に大高城に入り、兵糧を入れる妨害をされない様に19日朝、潮の満ち引きを考えて(潮が引いていて大高川の水位が下がっているうちに)砦を攻撃してくること間違いなし。」となるのです。
この訳だと砦を攻撃してから兵糧を入れたことになり、前から言われていた「なぜ砦を攻撃する前に危険を犯して兵糧を入れたのか?」の疑問も無くなります。
しかしいくら調べても「助」に「邪魔をする」と言うような意味で使う用法は見当たりません。
まあ「しおの満干を勘かへ」は、後に「鹽満しおみちさし入御馬の通い是なく熱田よりかみ道をもみにもんでかけさせられ」の記述を補強する為に、牛一が「あまりよく考えず勇み足で書き記した。」と言うのが実情でしょう。

*1:時速20kmでマラソンを走ると2時間6分となり日本最高記録に匹敵する記録となります。この時代の日本人は今より20㎝以上身長が低いのでこれ以上早く走るのは絶対無理でしょう。