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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその8ー信長はどのような秘策を持って出陣したのか?

信長が大軍で攻め寄せてきた義元に対し、乾坤一擲けんこんいってきの戦いを挑むため桶狭間に向けて出陣する場面は、多くの歴史ドラマで描かれる有名なシーンです。
殆どのドラマでは信長が義元を討つ秘策を胸に秘して出陣するのですが、*1果たして実際の信長はどの程度の勝算を持って出陣したのでしょうか?
歴史家の先生方の大半は「信長は流石に義元を討てるとまでは考えていなかったが、今川軍に大きな打撃を与える事はできると考えていた。」との説ですが、本当でしょうか?

図1:『信長公記首巻』信長出陣記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)

信長公記』には信長出陣の場面が詳細に描かれていますので、その記述に沿って信長の動きを追って見ましょう。
まず、5時半頃丸根・鷲津砦から今川が攻めかかってきたと次々と連絡が入ります。*2(図1の①)
すると信長は急に幸若の「敦盛」*3を舞い、「ほらふけ具足よこせ」と唐突に出陣の支度を始めます。
そして馬にて出陣するのですが、この時信長と一緒に出陣したのは小姓の「岩村長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤まゆ三郎」5人だけで、主従六騎は「三里一時にかけ」*4熱田神宮に着きます。(図1の②)
そして「辰剋たつのこく源大夫げんだゆう殿宮*5のまへより」との記述になってます。(図1の③)
「辰剋(=辰の刻)」は午前7時~9時にあたります。信長は夜明け方「今川が砦を攻め始めた」との報告を受けてすぐに出立しているので、清州を遅くとも午前6時までには出ている筈です。清州から熱田神宮まで約12kmですので、馬で飛ばす(およそ時速15km)と45分程で着きますので、6時45分頃となり、大体辰の刻と言っても良いでしょう。
ただ「信長は熱田神宮で慌ててやって来る重臣達を待ち、ここで陣容を整え、3千人程で桶狭間に向けて出立した。」と言う説が良く語られますが、『信長公記』では次に「此時馬上六騎雑兵(=足軽)ばかり也」(図1の④)との記述しかなく、他の武将達が合流したとは書かれていません。そして信長は小姓5騎と足軽200人のみで桶狭間に向けて出立します。
これが勝算を持った武将が出陣する姿に見えますか?
私には義元が南尾張で縦横無尽に暴れまくるのを指を咥えて見ている事しかできなかった信長が、ついに堪忍袋の緒が切れて、怒りに任せて出陣したようにしか見えません。
ただ信長が全くの無策で行動を起こしたのかと言うとそうではありません。
もし今川義元が19日朝に沓掛を立って桶狭間に向かっていたのなら、信長の行動はそれこそ「飛んで火にいる夏の虫」です。
しかし私は義元は18日夜に大高城に入り、19日朝鷲津・丸根砦を落とした後、東に向けて移動を始めたと考えています*6
だとすると信長は今川軍の背後から攻めかかることになります。ただ義元が反転し攻撃してくれば一溜ひとたまりもありません。また後方には鳴海城があり、ここから岡部元信が信長の背後から攻めかかってくる可能性もあります。
信長は「せめて今川軍をこの眼で見、一太刀でも浴びせてやらないと気が収まらん!」との気持ちだけで出陣し、今川軍の殿しんがりまたは残兵に一太刀浴びせたら直ぐに撤退する気であったと私は考えています。

*1:昨年の大河ドラマ「どうする家康」でも信長がどうしたら勝てるか熟考し、勝算を見い出してから出陣する場面が描かれていました。

*2:前回の投稿【補論】その3ー義元は満潮時に砦を攻撃していない。を参照

*3:「敦盛の舞」と言えば能の演目『敦盛』の事だと勘違いされている方が多いようですが、能の『敦盛』には「人間五十年、、、」は出てきません。この一節が出て来るのは幸若舞の『敦盛』です。幸若舞とは能とは全くの別物で能面が必要で無く、気軽に踊れることから多くの戦国武将達に愛好されました。

*4:清州から熱田神宮までは確かに3里(約12km)ですが、一時を一刻(約2時間)と解釈すると時速6kmとなり、馬で駆けるには遅すぎます。ここは「熱田までの三里の道のりを一気に駆け抜け」と訳すべきでしょう。

*5:熱田神宮南側にある上知我麻かみちかま神社のこと。江戸時代まではこの名前で呼ばれていた。

*6:6月2日投稿「義元は18日何をしていた?②」の記事を参照