『信長公記』は信長が善照寺砦に入った記述の後、突然場面は変わり「御敵今川義元ハ四萬五千引率しおけはさま山に人馬の休息在之」と書かれています*1。(図1の①)
そしてこの記述がまたも私を含め、多くの人々の頭を悩ませています。
今川軍の兵数に関しては、1月16日投稿「桶狭間検証その3ー信長と義元実際の兵力差は?」をお読み頂くようお願いして、今回はこの文章最大の難問「おけはさま山」について論じたいと思います。
長らく「桶狭間の戦い」は田楽坪と呼ばれる窪地で休息していた今川義元を織田信長が奇襲して討ち取ったとされてきましたが、藤本正行氏が「信長公記には桶狭間山と書いてある。」と言い出したことがきっかけで、「義元は窪地ではなく、布陣の常識に従って山で陣を張っていた。」との説が主流となり、では「桶狭間山はどこだ?」との論争が始まりました。
そして現在は桶狭間古戦場公園の東側にある標高64.7mの小山*2が「桶狭間山」に比定されています。(図2)
しかし、義元が何故この地に陣を張ったのかが分からないのです。従来の「正面攻撃説」では、義元は19日朝沓掛を立ち桶狭間山に陣取って、攻めて来る織田信長を向かい討とうとしていたとするものが多いですが、それじゃあ何故あんなに無残にやられたのか?の説明がつきません。
そこでかぎや散人氏や竹内元一氏、水野誠志朗氏*3を始めとした先生方が「義元は18日大高城にいて撤退中*4に信長に襲われた。」との説を提唱し、現在主流になりつつあります。この説だと義元は大高から沓掛方面に移動する途中で「桶狭間山」で軍を止めたところを、後方から信長に攻めかかられたことになりますので「正面攻撃説」より説得力があります。
しかし、この説でも何故義元が「桶狭間山」で軍を止めたのかの疑問が残ります。皆さんは『信長公記』に「人馬の休息在之」としてますし、時刻も「午の刻(11時~13時)」(図1の②)となってるのでここで昼食を取ったので良いのではないか?」と仰られるかもしれませんが、
大高から桶狭間まで徒歩でも40分程しかかかりません。また桶狭間から三河の沓掛城まで1時間弱で辿り着けます。(図3)
通常撤退する場合は、安全な地点までできるだけ迅速に移動するのが鉄則です。ですから撤退中に昼食を取るなんてことはあり得ません。ましてや、あと1時間で安全な沓掛城に辿り着けるのです。
かぎや散人氏は自著『信長公記天理本首巻』*5の中で「義元は撤退中も信長軍の強襲に備え、桶狭間山に陣を布いて後続する今川軍の収容を図っていた。」と述べられています。しかし、織田軍は今川軍よりはるかに少ないのです。信長達が中島砦を出てこちらに向かってくるのを把握したのなら何故軍を返し、鳴海・大高城からも兵を出して取り囲まないのか?撤退中に後方から攻撃された場合は、反撃するのが最良の対処法なのですから。
更に桶狭間山から中島砦方面は幕山が遮っていて見えないのです(図4)。中島砦が見える幕山や高根山には松井宗信や井伊直盛が配置されていて*6その部隊を指揮するために桶狭間山に布陣したとの説を目にしますが、果たして敵が見えない場所で指揮できるのでしょうか?
本当に桶狭間山はこの場所で良いのか?と疑いたくなりますが、桶狭間古戦場保存会*7の方々が古来から伝わる地元の伝承等を綿密に調査された上で比定されてます。また現在では多くの歴史家の先生方もこの場所を桶狭間山だと確定していますし、他の場所を特定できるような史料も発見されていませんので、現時点ではケチのつけようもありません。
*1:義元は4万5千人で桶狭間山に陣取ったわけではありません(桶狭間一帯に4万5千もの兵が駐屯したら大高城から中島砦一帯まで兵で埋め尽くされてしまいます)。ここはあくまでも4万5千の兵を率いて本陣を桶狭間山に置いたと解釈すべきです。
*2:グーグルアースで確認すると現在は宅地開発が進んだ為か標高50m程しかありませんでした。
*3:かぎや散人氏と竹内元一氏は6月2日投稿の『信長公記』を読み解くその6ー義元は18日何をしていた?②を参照。水野誠志朗氏はかぎや散人氏が書いた『信長公記天理本首巻』の編集者で現在中日新聞WEB(水野誠志朗の尾張時代の信長をめぐる:達人に訊け!:中日新聞Web)で精力的に活動し続けておられます。
*4:こちらも6月2日投稿の『信長公記』を読み解くその6ー義元は18日何をしていた?②で詳しく述べてますのでご参照ください。
*5:
*6:小和田哲男先生や桶狭間古戦場保存会の方々が主張されていますが、典拠となる史料は江戸時代の軍記物の類しかなく、良質な史料は見つかりません。
*7:愛知県名古屋市緑区桶狭間周辺の方々が集まり、桶狭間の戦いや地域の歴史をみんなで学ぼうと2008年に発足したもの(保存会のHPhttps://okehazama.net/より)。桶狭間の戦いについての調査や勉強会を活発に行っており、現地のガイドも行っています。