ようこそケビンの部屋へ

自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

【補論】その4ー簗田出羽守とは何者?

今回は『信長公記』から離れて「簗田やなだ出羽守」について論じてみたいと思います。
簗田出羽守(通称政綱)については静岡大学名誉教授の小和田哲男先生*1が事あるごとに言及されておられます。
小和田先生は「桶狭間の論功行賞では、今川義元に一番槍をつけた服部小平太や頸を取った毛利新介を差し置いて、簗田政綱が一番手柄の栄誉を与えられた。」と説いておられます。
そしてその理由が「簗田政綱は諜報部隊の長であり、桶狭間の戦いでは信長直属の特務機関として、義元本陣の動向を逐一伝えていた。その為、信長は義元が桶狭間山で休憩していることを知り、討つことができた。」と言う物です。これが本当なら確かに凄い手柄なのですが、、、、
簗田が論功行賞で「信長から一番手柄を与えられた」と書かれている史料がどれなのか全く分かりません。ネット上で「簗田政綱」と検索すればこの一番手柄の記事が多数出てきますが、典拠となるような信頼できる史料は見つけることができませんでした。*2
ましてや「簗田が信長直属の諜報特務機関を担っていた」と言う007ダブルオーセブンみたいなことが書かれている史料が存在してるとは思えません。
しかし、小和田先生は近年のYOUTUBEチャンネルでもこの話を堂々となさっておられます。*3
学会等で論文を発表する場合は、典拠となる史料を明示する必要があります。しかし、WEBでの自説公開の場合はこのルールがありません。なので、名のある歴史専門家の先生方が典拠となる史料を示さずに、あたかも事実と断定されたかのような言い回しをされることをよく見かけます。少なくとも影響力のある先生方は、WEB上での自説公開の場合も論文発表と同じルールにのっとって頂きたいものです。小和田先生はこれ以外の説では典拠となる史料を明示し、非常に分かりやすく解説されておられるだけに残念です。
では簗田出羽守とは何者なのでしょうか?

図1:尾州古城志3P(国書データベースにて検索)

尾州古城志*4沓掛村の項目に「簗田出羽守」の名があります(図1)ので、彼が沓掛の領主だったことは間違いないようです。
なお史料には名前の下に「初」と書かれていますが、沓掛の地は南北朝の時代より代々近藤氏が統治しており、桶狭間の時には近藤景春が城主でした。彼は当初織田方でしたが、山口左馬之助の誘いに乗り今川方に寝返っていました。桶狭間後景春が城を去り*5沓掛の地が尾張領に戻ったので、尾張の初代沓掛領主との意味でしょう。
では何故簗田出羽守が沓掛城主となったのかが問題なのですが、残念ながらその理由を類推できるような史料は発見できませんでした。

図2:『甫庵信長記』簗田出羽守記述部分(国立国会図書館デジタルより複写)

『甫庵信長記』でさえ簗田出羽守は信長の言ったことに対し「おっしゃることごもっともでございます。」と追従ついしょうしているだけです(図2)。こんなおべんちゃらを言っただけで沓掛3千貫拝領は無いでしょう(笑)。
なお『甫庵信長記』を始めとした江戸期の軍記物は全て簗田出羽守が「桶狭間の戦い」に参戦したとしてますが、私は彼は桶狭間には参加していないと考えています。その理由は
前々回の投稿で説明しましたが*6太田牛一はどの合戦においても参加した武将達はもれなく記述してきました。なのに『信長公記』には簗田出羽守の名前は一切書かれていないからです。
結局のところ、簗田出羽守が桶狭間後信長から沓掛の知行を与えられた事実があったが、その理由を示す史料を発見できなかった。その為江戸時代の軍記物作者達が「沓掛3千貫もの知行を宛がわれたのだから桶狭間で大きな軍功があったに違いない。」と考え、そこから尾ひれ羽ひれが付いて行って、「簗田一番手柄」のような話がまことしやかに語られるようになってしまったのでしょう。
このような荒唐無稽な説が「織田信長」に関しては特に多く、私には「織田信長ならどんな無謀な説でもOK」の状況になってるように思えてなりません。
歴史専門家の先生方には、ちまたに氾濫しているこのような虚説に乗っかるのではなく、専門家らしく良質な史料で典拠を示しながら、「信長の実像に迫って頂きたい」と切に願うばかりです。

*1:今川義元研究の第一人者で、桶狭間に関しても多くの本を出されています。(特に学研M文庫から出版されている「戦史ドキュメント桶狭間の戦い

は、義元の出陣から討死までを時系列で細かく追っており、非常に参考になります。)戦国時代を題材にしたNHK大河ドラマにおいて2009年から全ての作品の時代考証を手掛けておられ、また近年ではYOUTUBEチャンネルも開設されており、現在最も有名な歴史学者の一人です。

*2:甫庵太閤記』に簗田出羽守が「良きことを申」した為沓掛村3千貫の地を与えられ、義元の頸を取った毛利新助より多かったとの記述がありますが、『甫庵信長記』にはこのような記述はありません。甫庵は太閤記執筆の際に簗田が沓掛の領主になったことが判明していたためこの記述を入れたと考えられますが、その理由が「良きこと」と言う非常に曖昧な言い方になっていることから見て、甫庵自身も簗田が何故沓掛3千貫を与えられたのか分からなかったと私は考えています。

*3:戦国・小和田チャンネル2022年6月1日投稿- YouTube【講演】松平元康と桶狭間の戦い【一般公開】

*4:尾張藩士天野信景が宝永5年(1708年)に著した「尾張古城志」に、拾遺しゅうい(当初の作品から漏れていた物)が付されたもの。尾張各村の領主と城について郡別に記述されている。

*5:wikipedia「沓掛城」の項目に近藤景春は信長に城を攻められて討ち死にしたと書かれてますが、信長が沓掛城を攻めたとの史料がどれなのか分かりません。景春の死亡が確認できないので城を去るとの表現にしました。

*6:6月30日投稿の『信長公記』を読み解くその9ー桶狭間に清州の重臣達は参加したのか?を参照