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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその12-何故今川義元は桶狭間山に陣取ったのか?②

今川義元桶狭間山に陣取るまでを時系列で追って見ましょう。

図1再掲:『信長公記首巻』桶狭間山記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)

信長公記』には義元は午の刻(11時~13時)鷲津・丸根砦を落として上機嫌になり、謡を三番うたったと記されています。(図1の①)
しかし、その前には両砦が落ちたのは辰の刻(7時~9時)と記述されています(図1の②)。では義元は少なくとも2時間以上どこで何をしていたのでしょうか?

図2:『三河物語』長評定記述部分(左:雑史集・右:原本、国会図書館デジタルから複写)

前回論じましたが、大高城から桶狭間山まで1時間掛かりません。三河物語では、義元が大高城で誰を残すかで長評定ながひょうじょうをして無駄な時間を費やしたと義元を酷評しています(図2)。作者の大久保彦左衛門は「桶狭間」を体験していないのでこの記述をそのまま信用することはできませんが、彼は『信長公記』を読んで「退く時ははよ(早く)するもんだで、なんでそんな時間かけとんだらあ!」との思いで書いたに違いありません。

義元撤退ルートと信長進軍ルート

時間がかかった理由としてかぎや散人氏は「義元はまず漆山あたりに陣取って、松平元康等が鷲津・丸根砦攻撃中に信長が来襲して来ないか監視をした。砦陥落後は高根山あたりまで進軍し、ここで前軍を撤退させるため駐軍した。そして前軍撤退完了後高根山・幕山に殿しんがりを置いて、桶狭間山まで後退してここに陣を張った。」と説明しておられます。(図3参照)
非常に明快な説明なのですが、仮に義元がこのルートを取ったのなら、こちらに向かってくる信長軍を視認できた筈です。(かぎや氏も高根山で認識したと書いています。)
前回も書きましたが、それなら何故撤退を中止し、信長に攻撃を仕掛けなかったのかが理解できません。仮に相手にする気が無いのなら、漆山や高根山を経由して撤退する意味が分かりません。
義元が漆山・高根山に陣取ったとする事を示す史料があれば別ですが、かぎや氏は史料を提示しておられません。*1
やはり「義元は鷲津・丸根砦を落とした後、織田軍の来襲に備えて大高城付近で滞陣していたが、いくら待っても信長達がやってこないので*2大高道を通って、ほぼ一直線に沓掛方面に撤退を始めた。」と考えるべきではないでしょうか?
それにしても義元は桶狭間山で何をしていたのでしょうか?桶狭間古戦場保存会の方々は大池のほとりに瀬名氏俊うじとし*3が陣を構え、「桶狭間山に義元本陣の設営を行った。」との言い伝えがあると語っておられます。
そうすると単なる昼食休憩で滞陣したとは思えません。彼はここで何かをしようとしていた、では何をしようとしていた?
やはり気になるのは緒川と刈谷の水野兄弟です。竹内元一氏は著書*4の中で「今川義元は鷲津・丸根砦を攻略した後池鯉鮒(知立ちりゅう)に向かい、水野兄弟を攻めようとしていた。」との説を提唱しておられます。私も義元の南尾張侵攻の目的は水野兄弟だと考えていましたので*5この説には大賛成としたいところなのですが、それにしては桶狭間山に居る時間が長すぎますし、「『松平記』*6に義元が桶狭間で討ち取られた時今川の重臣達が池鯉鮒城にいたと書いてあるので義元は池鯉鮒城に行こうとしていたと考えられる。」との説明も強引すぎて納得できません。
それに義元は桶狭間山で鷲津・丸根砦陥落を祝し、謡を三番うたっています。さらにその後、千秋せんしゅう佐々さっさを撃退した後に「緩々ゆるゆるとして謡をうた」っていて、信長に襲撃されるまで長々と留まっています(図1の③)。まるで「信長よ、私はここにいるから早く討ちに来い。」と言ってるように思えるほどです。
明石散人氏は著書の中で*7「信長は桶狭間で降伏すると騙して義元を討ち取った。」と言っていますが、流石に相手が降伏すると言ってきただけで、自軍の軍備を解く「うつけ」はいないでしょう。
なら「水野兄弟が服従の謁見を求めて来た。」と言うのは?もうここまで来ると推測の域を超えて妄想ですよね。
今の段階では、鷲津・丸根砦を落としても信長がやって来なかったので、今川義元織田信長はもうやって来ない。本日の戦闘はもう終わった。」と安心してしまい、ゆるゆると大高城で長評定をしたり、桶狭間山で地元の地主達に安堵状を書いたりして過ごしていたとするしかないと思うのですが、、、

*1:信長公記天理本』にも義元が漆山・高根山に陣取ったことを類推させるような記述は見当たりませんでした。

*2:この頃の戦闘は夜明けとともに始まり、日暮れには終了するのが一般的でした。ですので辰の刻(7~9時)になっても敵が姿を現さなかったら、もうやって来ないと考えるのが常識でしょう。特に今回の場合は鷲津・丸根は既に落ちてしまっているのですから。

*3:瀬名と聞けば昨年の大河ドラマ「どうする家康」に出ていた瀬名姫=徳川家康正室の築山殿を連想しますが、氏俊は彼女の叔父にあたります。なお築山殿を「瀬名姫」と呼んだ史料は存在していません。

*4:桶狭間の戦い前夜の真実』

*5:5月19日投稿『信長公記』を読み解くその5ー義元は18日何をしていた?①をお読みください。

*6:作者不詳ふしょう(阿部四郎兵衛定次が著者との説もあり)。天文4年(1535年)家康の祖父松平清康の死から~天正7年(1579年)築山殿および嫡男信康の死までを記した書物。1610年以降の成立と考えられる。桶狭間で義元は酒宴を開いていたとの記述がある為、私は史料として使えないと考えています。なお『松平記』は「愛知の史跡めぐり」(https://blog.goo.ne.jp/midorishako/e/b3fc5425be9d8ff9d8a53cf63ccf7d09)と題するブログを書いておられる方が原文を忠実に訳した物を掲載されていましたのでそちらを読ませて頂きました。「60代のおっさん」さんに感謝いたします。

*7:『二人の天魔王』

明石先生については1月30日投稿の信長はどのようにして尾張を統一したのか?その1ー信長は本当に嫡男?をお読みください。