ようこそケビンの部屋へ

自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその13ー何故文章が尻切れトンボになっているのか?

信長公記』の桶狭間山の文章にはまだおかしな箇所があります。

図1:『信長公記首巻』文章断絶部分

図1をご覧ください。「御人ずう立てられ勢衆揃させられ様體ようたい御覧」となっていて(図1の①)、その後改行され「御敵今川義元、、、」と続きます。
文章が尻切れトンボで終わって、その後唐突に視点が織田信長から今川義元に移り、全く別の場面になっていますよね。
「勢衆揃させられ様體御覧し」の後には本来は別の文章が入っていたのでしょうか?そしてそれが何らかの理由で削られた?
しかし、その後の文章をよく見てみると、7行後に「信長御覧して中島へ御移候はんと、、、」とここにも「御覧し」の文字があります。
そしてこの2文を繋げると「(信長は)佐久間(右衛門)居陣の善照寺砦へ御出おいでになって、(砦の)人数を用立てられた。部隊が揃ったのをご覧になって、中島(砦)へ御移りになろうとされたところ」となり、淀みなく文章がつながります。
ですのでここは文章が削られたのではなく、元あった文章の間に後から「御敵今川義元は」から「陣を居られ候」までの文章が挿入されたと考えるべきでしょう。
そうすると信長が善照寺砦で「御覧し」たのは「謡をうた」った今川義元ではなく、善照寺砦で勢揃いした自軍の兵達となります。
前々回説明しましたが*1善照寺砦からは漆山、高根山が遮っていて桶狭間山は見えませんし、また距離も2km以上あり離れすぎています。
それなのに『信長公記』には「信長は善照寺砦で今川義元が謡をうたったのを見た」と書いてあるので、その解決策としてかぎや散人氏を始めとした歴史家の先生方は「この時義元は高根山付近に一旦陣取り、その後桶狭間山まで後退した」*2と論を提唱されました。しかし前に「おけはさま山に人馬の休息之在」の文章があるのに「高根山付近にいた」とするのは無理がありすぎでしょう。
ですが義元視点の文章が後から挿入されたものであるなら、信長から義元が見える必要が無くなります。(逆もまた然り)

図2再掲:信長公記池田本(牛一自筆本)巻13奥書(田中久夫氏著「信長公記成立考」より抜粋)

太田牛一は若い頃から多くの出来事をメモにしたためていて、それを基に『信長公記』を書いたと言っています。(図2参照)
ですので過去に認めていたメモを基に信長視点で書いた文章に、新しく入手した今川側の情報を無理やり挿し込んだ為、このような尻切れトンボの形になったとするのが妥当でしょう。
しかし『信長公記首巻』4本*3とも写筆者は何故そのまま「御覧し」と写したのか?
更に挿入部分にはあの間違った和暦「天文廿一壬子二十一じんし」が入っています。*4
やはりこの部分にも当時の人達しか知り得ない大きな謎があるのでしょうか?『信長公記首巻』の和暦には本当に頭を悩まさせられます。

*1:7/14投稿『信長公記』を読み解くその11-何故今川義元桶狭間山に陣取ったのか?①をお読みください。

*2:前回7/21の投稿をご覧ください。

*3:陽明文庫本、町田本、南葵本そして天理本までも「御覧し」で終わっています。

*4:和暦に関しては4/28及び5/5投稿の「何故天文21年と偽ったのか?」で詳しく論じていますので、是非お読みください。