信長が善照寺砦に入ると、それを見た佐々隼人正*1と千秋四郎*2が「義元へ向て足輕に罷出」ます(図1の①)が、この記述に対し、多くの歴史家達がいろんな説を提唱されています。
先ず佐々と千秋は信長が来るまでどこで何をしていたのでしょうか?佐々は春日井郡の井関城主とされていますし、千秋家は代々熱田神宮の大宮司であったので2人とも南尾張一帯の国人ではありません。なのに何故この地にいたのか?丸根又は鷲津の守備兵だったとの説もありますが、太田牛一は各砦の守備兵を綿密に記述しており、そこに名前が入っていないのでこれも無いでしょう。
となると、義元が進軍してきたのを見て独断で南尾張に入ったと考えるのが妥当でしょう。
このような行動を取ったのは佐々・千秋だけでは無く、多少の兵達が集結していたようです。ただその内の殆どは信長に合流しています。*3
しかし佐々と千秋だけは信長がいる善照寺砦に合流せず、僅か300人程で今川軍に戦いを挑んでしまいました。この時の信長の兵数は500人以下しかおらず*4、300人は非常に貴重な戦力です。なのに何故彼らは単独で戦いを挑んでいき、木っ端 微塵に玉砕してしまったのか?*5
これに対し歴史専門家の先生方の中には「信長が今川義元の本陣まで到達できるよう敵の前衛部隊を引き付ける陽動作戦だった。」*6や「信長が戦場に間に合うよう今川軍の撤退スピードを遅らせようとした。」*7等信長の意図を理解した上でそれを助けるために起こした行動であると語られる方が多いのですが、本当にそうでしょうか?
『信長公記』を読む限り、佐々も千秋も信長と接触した形跡はありません。これらの説を主張している方々は「清州から出陣する際に取り決めてあった」とか、「打ち合わせをしていなくても信長の戦略を理解できた」とか言っておられますが、どちらも史料の裏付けも無く、暴論すぎて話になりません。
ところで佐々と千秋は今川のどの部隊に突撃したのでしょうか?
彼らは信長が「善照寺へ御出」を見て出撃し、かつ戦闘の様子は桶狭間山にいる義元から見えていました(図1の②)。なので善照寺砦から見える場所から出陣し、桶狭間山から見える場所で戦ったことになります。そうすると『信長公記』に「午刻戌亥(北東)に向て人籔を備」と書かれている幕山と高根山近辺の丘陵地帯に布陣していた部隊を攻撃したと考えられます。(図3参照)
つまり中島砦から桶狭間山への進軍経路で戦闘が起こっており、もし信長が当初から桶狭間山に在陣する今川義元を攻めるつもりであったなら、邪魔にしかなっていないようにしか思えません。また撤退スピードを遅らせようとしたとしても、この時は信長はまだ善照寺砦におり、高根山近辺からその様子は見えてますので、数で勝る今川軍に迎撃の準備をさせるだけとしか考えられません。
では何故彼らは信長と合流せず、自分達だけで無謀にも今川軍に突撃し、玉砕したのか?残念ながら現時点ではその理由を推定できるような史料は無く、不明としか言えません。
ただ、中島砦で合流した前田叉左ら9人は全員信長子飼いの若武者達ですが、佐々隼人正と千秋四郎はどちらも一角の国人領主です。信長は清州では軍議を行わず、国人領主達に出陣の指示を行いませんでした。
更に丸根砦に詰めていた佐久間大學は熱田に隣接する御器所の国人領主であり、熱田神宮大宮司の千秋氏と深い繋がりがありました。*9その佐久間大學は信長からの救援を得られず、見殺しに近い目に会っています。*10
この事が2人が信長と合流せず、自分達だけで突撃した事と因果関係があるのではないかと私は考えています。
*1:佐々成政の兄で通称政次wikipediaによると井関城城主となっているので、信長直属の小姓衆ではなく、国人領主と考えられます。
*2:通称季忠wikipediaによると熱田神宮の大宮司とされているので隼人正と同じく国人領主だと見られます。
*3:信長が熱田を立った時には騎馬六騎と足軽200人だったのが、善照寺砦を出る時には「二千に不足」まで増えていますし(詳しくは6/30投稿の『信長公記』を読み解くその9ー桶狭間に清州の重臣達は参加したのか?をお読みください。)、中島砦を出る時には前田叉左衛門(利家)以下9名が合流しています。
*4:信長が善照寺砦に着いた時は清州からの歩兵約200、丹下砦守備兵約120及び善照寺砦の守備兵約120の計約440人だけです。詳細は6/30投稿『信長公記』を読み解くその9ー桶狭間に清州の重臣達は参加したのか?を参照
*5:『信長公記』には「五十騎計討死」と書かれています。騎馬一騎に対し足軽3~5人が従軍していましたので、半分の150人以上が亡くなったことになります。
*6:小和田哲男先生や桶狭間古戦場保存会等義元が19日沓掛から桶狭間山に進軍してきたとの説を取っている方々が主張されています。
*7:かぎや散人氏、竹内元一氏、水野誠志朗氏等義元が19日大高から桶狭間へ撤退中だったとの説を取っている方々が主張されています。
*8:グーグルアースの高度プロファイルを使って確認。なお高根山の北側有松天神社と細根山の間は現在宅地造成により標高が低くなっているが、1888年(今昔マップhttps://ktgis.net/kjmapw/index.html使用)の地図で見てみると細い谷あいになっているので見通しは困難と判断しました。
*9:佐久間氏の氏神である御器所八幡宮は熱田神宮鬼門の守り神として鎮座したとされており、熱田神宮には大學の子孫が寄進したとされる巨大な燈篭が残っています。