織田信長はどうやって「山際迄」行ったのか?に関して『信長公記』は一言も書いていません。なので今回は私の考えを述べてみたいと思います。
信長は中島砦で「あの武者は(中略)鷲津丸根にて手を碎辛勞してつかれたる武者也」(図1の①)と言っていますので、単純に考えて鷲津丸根砦あたりに残っている兵達を指して言った事だと解釈すべきだと私は考えます。
『三河物語』では石河(川)六左衛門尉なる人物がいる所に織田勢が攻めかかって来ている様子が描かれています(図2)。六左衛門尉は石川姓であることから松平元康の家臣と思われます。
だとすると「被歸せ給」とは元康のいる大高城に帰らせろと言っていることになり、彼らは丸根鷲津砦を攻撃し、その後その付近に滞在していた部隊と考えられるでしょう。
つまりこの部隊こそ信長が言う「つかれたる武者」となります。そして次にその兵達との戦い方を訓示しているのですから、信長は中島砦を出た後鷲津丸根砦方面へ向かったのではないでしょうか?
信長達が中島砦に着いたのは午の刻(11時~13時)で丸根鷲津砦が落ちてから2時間以上経っています。砦近辺と遠く幕山高根山近辺に今川軍が残っているように見えますが*1義元の本陣は中島砦から見えません。なので信長は今川義元本隊は既に撤退済みと判断したのではないでしょうか?そこで目の前にいる今川の残党達を叩こうと南に進軍したと私は考えています。
六左衛門達の部隊は信長軍が攻めかかって来るのを見て、戦わずに我先にと逃げ出します。この事からこの時間帯での信長の登場は今川方に取って予想外の出来事だと言ってよいでしょう。
そしてここからが問題なのです。鷲津丸根近辺にいた兵達を追いかけ続けると、兵糧をふんだんに入れ兵力を増強した大高城に出てしまいますがそれは流石にまずいです。
そこで途中で追うのを諦めます。しかし信長はこんなものでは満足できません。彼は義元始め今川の主力部隊は既に撤退していると思い込んでいましたので今度は東に進路を変え、中島砦から見えていた高根山幕山の兵達に向かって進軍して行きます。
私は信長は最初から複雑な丘陵地帯の地形を利用して山間を進軍し、今川の残党を叩きながら尾張に戻るつもりであったと考えています。(図3参照)
しかし山間の道を東に進んでいくと*2前方の山の上に敵が陣を敷いているのが見えてきました。どうやら撤退した筈の今川主力軍がまだ残っているようです。しかも幟旗を見ると二引両に五三の桐、つまり今川義元の本陣であることを示しています。信長にしてみたら「何故義元がそこにるんだぁ⁉」と叫びそうになったことでしょう。*3
しかし冗談言ってる場合ではありません。義元の本陣がここにあるということは周りにまだ今川の主力部隊が布陣している可能性が高いからです。そこで信長は当初標的の高根山幕山の兵に対する抑えを残し、自身は桶狭間山の山際迄忍び寄ります。すると急にゲリラ豪雨が襲ってきました。*4運のよいことに強風が西から東に吹いていましたので、信長からは義元本陣が慌てまくる様子が見えますが、向こうからこちらは風雨に遮られて見えません。
義元本陣の様子を見ていると馬廻り衆300人ぐらいしかいず、*5近くに他の部隊もいなさそうです。
ここで信長は一か八かの賭けに出ます。雨上がりと同時に義元本陣を急襲したのです。
以上が私の説です。いや失礼しました、現状では中島砦から桶狭間山までの進軍経路を示す史料が無いので、この説は単なる私の妄想です。
*1:通説では高根山に松井宗信幕山には井伊直盛が各千人ほど詰めていたとしていますが、両名がこの山に布陣したことを示す史料はありません。但し両名とも桶狭間で討死にしたことが確定しているため、ここに布陣していた可能性は高いでしょう。
*2:前々回(9/1投稿『信長公記』を読み解くその18ー信長はどこへ行った?①)太田牛一が中島砦から桶狭間山までの進軍経路を書けなかったのは戦いに参加した信長の家臣達から話を聞けなかったからとしました。そしてその理由を「(信長にとって都合が悪いことがあったので)箝口令が敷かれていたのでは?」と書きましたが、山間を彷徨いながら進軍したので信長を始め全員どこを通っているのか分からなかったとも考えられます。
*3:スイマセン、陵南田岡コーチの超有名なセリフをパクリました。詳しくは『スラムダンク』21巻をお読みください(笑)。
*4:信長はゲリラ豪雨に紛れて桶狭間山麓まで辿り着いたとの説を良く目にしますが『信長公記』には「山際迄御人籔被寄候處俄急雨、、、」と書いてあり、山際に辿り着く前には雨は降ってません。