ゲリラ豪雨が上がり「空晴る」と信長は大きな声で「すハか々れ」と突撃を指示します。
対して今川軍は「水をまくるか如く後ろへくはつと崩れたり(中略)今川義元の塗輿も捨てくつれ」ます。(図1の①)
皆さんこの文章を読んで不思議に感じませんか?『信長公記』は今川義元は「四萬五千引率し」て桶狭間山に陣取ったと書いています。そして織田信長の軍勢は「二千に不足の御人籔」と記しています。
しかしこれが4万5千もの大軍を擁した大将の姿に見えますか?
今川軍は信長の突撃に対し全く反撃できずに全滅させられています。どう見ても、今川軍より織田軍の方が圧倒的に兵数で勝っているようにしか読めません。
『信長公記』には信長突撃時の今川軍の兵数に関して「三百騎計眞丸になって」(図1の②)としか記していませんし、義元が討ち取られるまで他の今川部隊は一切登場しません。*1
では今川の大軍はどこにいたのでしょうか?
現在通説となっている「正面攻撃説」ではこの疑問に対する納得のいく説明はされていません。*2
対して最近主流となりつつある「後退追撃説」では「義元は大高から沓掛方面に繰退と言う方法で撤退中、自身が殿となり前軍を後方に逃がす為桶狭間山に陣取っていたとしています。*3
これだと今川軍の殆どが義元より先に沓掛方面に進軍してますので、信長突撃時に今川の主力部隊が近くにいなかったのも納得できます。しかし義元が桶狭間山に陣取った理由はちょっと酷すぎます。
撤退の際、総大将は真っ先に戦場から離脱するのが鉄則中の鉄則です。大将自らが殿を努めるなんて話聞いたことありません。ましてや義元は多くの武将を率いているのです。大将自身が殿になって、一時的であろうが敵の矢面に立つ必要なんてこれっぽちもありません。
大体今川主力部隊は総大将を置いてどこへ行ったのでしょうか?「後退追撃説」の名付け親である竹内元一氏は著書の中で*4「水野兄弟を攻める為に池鯉鮒(知立)城へ入った。」と説明しておられます。確かに鷲津丸根砦を攻撃しても信長が戦場にやって来ないのを見て*5、次の標的を今川に服従する姿勢を見せながらも命令に従わなかった水野兄弟*6に変更するのは非常に納得行くものです。しかしそれは信長達が最後までやって来なかった場合の話なのです。実際には信長は遅ればせながら南尾張にやって来たのです。仮に主力部隊が先に撤退していたとしても信長来襲を確認した段階で呼び戻す筈です。また大高城にも松平元康や鵜殿長照等*7増強された兵達が多く籠っていましたのでそちらから攻撃させることもできます。
しかし今川義元が討たれた時近くに主力部隊が在陣していた形跡はありません。*8
やはり大半の部隊は義元より先に沓掛又は知立方面に進軍していたとしか考えられません。
では何故織田信長が進軍してきているのに主力部隊を先に撤退させ、自身は桶狭間山に長時間滞在していたのか?その答えは1つしか見つけることができません。
今川義元は織田信長がやって来ているのを知らなかった。
私はこれ以外に今川義元が織田信長に討ち取られた理由を見つけられません。
*1:私は9/1の投稿(『信長公記』を読み解くその18ー信長はどこへ行った?①」の注釈2)で『信長公記』は中島砦から桶狭間山麓までの信長の進軍経路が書かれていない為「迂回奇襲説」が定着したと書きましたが、更にこの部分の記述が追い打ちをかけたのだと考えています。この文章を読めば誰もが義元は信長の奇襲を受けたと考えるでしょう。
*2:「正面攻撃説」提唱者である藤本正行氏は著書『信長の戦争』にて義元の敗因を「鳴海鷲津攻略と信長迎撃の2つの目的があり、第1目的を実行中に第2目的が現れたので混乱してしまった。」と非常に哲学的な説明しかされていません。
*3:「後退追撃説」については7/21投稿『信長公記』を読み解くその12-何故今川義元は桶狭間山に陣取ったのか?②にて詳細に論じています。
*5:信長が熱田神宮に着いた時には既に鷲津丸根は陥落してしまっています。一行は熱田から内陸の道(上道)を大きく迂回していますので、義元が大高を出立する際にはまだ中島砦に着いていなかったと考えられます。
*6:義元は出陣に際し、水野十郎左衛門に尾張国境に砦を作るよう命令してますが水野氏が実践した形跡はありません。水野氏の動向に関しては5/19投稿『信長公記』を読み解くその5ー義元は18日何をしていた?①で詳細に論じています。
*7:通説では大高城主は兵糧入れの後鵜殿長照から松平元康に交代したとされていますが、『信長公記』には「人馬の休息大高に居陣也」としか書かれていません。『三河物語』に鵜殿長勿(長勿は桶狭間時点では既に亡くなっている事が確認されているので子の長照の間違い)と城番を交代するよう今川義元が指示したとの記述があることから通説になったと思われます。しかし『信長公記』に交代の記述が無いこと及び戦力増強のため大高城に兵糧を入れたと考えられる事から、私はどちらも大高城にいたのではないかと考えています。
*8:『信長公記』には松井五八郎(宗信の事と考えられる)が「枕を並て討死也」と記されていますが、手勢2百人だけなので主力部隊では無いと判断しました。