長らく論じてきました『信長公記首巻』における「桶狭間の戦い」の記述に関する考察も今回で最後になります。
桶狭間山に本陣を構えていた今川義元は織田信長勢の突然の来襲に虚を突かれ、あっさり毛利新介*1に頸を取られてしまいます。
『信長公記』ではこの時の今川本陣の兵数を「三百騎計」*2としか記述していません。対して信長の兵数は「二千に不足御人籔」と書いており、圧倒的に織田軍の方が勝っていました。
義元に付き従っていた兵達も「深田に足を取られて這いずり回っている所を討ち取られ」(図1の①)と殆ど虐殺状態でほぼ全員討死にしてしまいます。4万5千の大軍で威風堂々と進軍してきたのと同じ軍の姿とはとても思えません。
今川義元の頸を取った織田信長一行は日のあるうちに清州に戻ります。(図1の②)
この日の日没は19:08頃(図2)です。桶狭間から清州までは直線距離でも21kmありますので速足(時速6km)で戻っても3時間半、実際には4時間程かかるでしょう。そうすると遅くとも15時までには戦いは終結していなければなりません。対して信長が義元に襲い掛かった時刻は「未の刻(13時~15時)」ですので、戦いの時間は長くとも2時間程しかなかったことになります。
このことからも今川軍は全く反撃できず、信長達に一方的に蹂躙されたのが分かります。『信長公記』は翌日清州にて首実験したところ「頸籔三千余」あったと書いています。(図1の※)
しかし3千もの首をどうやって取ったのでしょうか?
よく桶狭間山の義元本陣の兵数を5千人としている説を目にしますが、そんな多くの兵が布陣している所に「二千に不足御人籔」で襲い掛かったら、例え相手が一時的に混乱していたとしても戦っている間に体制を立て直され反撃されるに間違いありません*3。ましてや義元の頸を取るなんて絶対に不可能です。
大体『信長公記』には義元本陣の人数は「三百騎計」としか書いていないのです。
但し義元討死の報せを受けて山田新右衛門が「馬を乗歸し」*4玉砕していますが、他の武将の名は書かれていません。新右衛門は桶狭間より少しだけ進んだ所で義元討死の報せを受けたので戻れたが、他の部隊は更に沓掛方面に進軍してしまっていた為戻るのを諦めたと考えるのが妥当でしょう。
では桶狭間以外でも織田と今川の戦闘が起こっていたのでしょうか?
信長の兵数は2千人以下ですので、他の場所に兵力を割く余裕はありません。但し幕山・高根山に駐屯している兵に対しては何百人かの人数は抑えとして残していた可能性が高いです。
この抑えの兵達と幕山・高根山の兵との間では戦闘が起こっていたと考えられますが、両山には何人ぐらいの今川兵が布陣していたのでしょうか?
桶狭間保存会の方々は幕山に井伊直盛の部隊1100人、高根山に松井宗信の部隊1500人の計2600人が駐屯していたとしていますが、典拠とする史料は明示されていません。*5
もしこれだけの人数が布陣していたなら帰還しようとする信長に対し弔い合戦を仕掛ける事もたやすくできるのに、むざむざと何百人にかの信長の分隊に全滅させられるなんてあり得ないでしょう。
また義元本陣が300人ばかりしかいないのに、両山に2600もの兵を配置したとするのも理屈に合いません。
『信長公記』には二股城主松井五八郎*6を当主とする一門200人が全滅したとあります。どこで戦闘があったのかは書かれていませんが、通説では高根山に布陣していたとされていますし、他の場所で戦闘があった可能性も無いのでこの辺りに布陣していたと考えて良いでしょう。
但し松井一門は総勢2百人程ですので、幕山・高根山の兵の総数も5百人を超える事は無いでしょう。(そうでないと信長の分隊で討ち取ることは不可能になります。)
以上の考察から私は「頸籔三千余」は今川軍の兵数を4万5千とした為、辻褄を合わせる為実際より多く記したと考えています。
実際の今川軍の死者は義元本隊約300人と義元討死の報せを受けて戻ってきた兵十数人。幕山・高根山に陣取っていた兵500人以下、それと前田叉左衛門達のように信長に先行して南尾張にやって来ていた兵達*7がゲリラ戦で討ち取った兵が数十人しかいないと考えられます。
そうすると
桶狭間の戦いで討ち取られた今川勢は多く見積もっても千人は超えない程度だった
と考えられます。
*1:生年不詳、幼い頃から信長の小姓となり、その後も馬廻衆、黒母衣衆として常に信長及び嫡男信忠に仕えた。最後は「本能寺の変」にて嫡男織田信忠を守って討死した。
*2:通常1騎は騎乗の武者1人とそれに付き従う足軽2~4人を指します。しかしここは山中なので騎馬は無理ですし、文脈から考えても300人の誤記でしょう。
*3:よく信長の兵は兵農分離されたよく訓練された兵なのに対し、今川の兵は農業の合間に兵役に従事する素人兵だったとの説を目にしますが、農兵達を侮ってはいけません。彼らは自衛のため農作業の合間常に武芸に励んでいましたし、農閑期は殆ど毎日どこかの戦場に駆り出されていましたので弱い素人兵との認識は間違いです。
*4:乗歸しと書かれているので新右衛門は桶狭間山より先、沓掛方面にいたことになります。この事からも義元に先行して進軍していた部隊がいたことが分かります。
*5:郷土史研究家梶野渡氏著『桶狭間合戦始末記』の中に保存会が作成した地図があり、そこに人数が記されています。(桶狭間保存会及び梶野渡氏については9/1投稿『信長公記』を読み解くその18ー信長はどこへ行った?①の注釈3で詳説していますのでお読みください。)なおこの地図では義元本陣の兵数も1500人となっていますがこちらも典拠となる史料は不明です。
*6:五八郎は二股城主となっていることから五郎八郎の略と考えられ、松井宗信と比定されます。
*7:前田叉左達に関しては8/25投稿『信長公記』を読み解くその17-前田利家は何故桶狭間にいたのか?をお読みください。