今回は「桶狭間の戦い」の本論から脱線して、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)について考察してみたいと思います。
藤吉郎が出生から織田家の侍大将になるまでにおいては多くの逸話が残っており、その中には今現在も史実として語られている物も多数あります。
しかしその当時の事を描いた良質な史料は存在しません。*1
『信長公記』も首巻には藤吉郎の名はただの一度も出てこず、巻一信長上洛時の箕作城攻めの記事が初出です(図1の①)。*2
また藤吉郎又は秀吉の名が記された書状の中で現在確認できる最古の物は、永禄8年(1565年)11月3日に信長が坪内利定に出した安堵状に付けた副状との事です。戦国時代の大名が出す書状には「〇〇の副(添え)状を読むように」と書いてあるだけで、その地区を統括する武将が具体的な内容が書かれた書状を発行するのが通例です。ですので藤吉郎は永禄8年(1565年)の時点では織田軍の有力武将になっていたことが分かります。*3しかしそれ以前どこで何をしていたのかを示す良質な史料は現時点では存在しません。
つまり木下藤吉郎がどうやって織田家の家臣になったのか?何故侍大将まで出世できたのかは全くもって不明の筈なのです。
なのに現在も「清州城の石垣を3日で修復し信長を唸らせた」話*4や「墨俣に一夜で城を作った」話*5等が本当にあった話だとして世の中に広がっています。現在まで語り継がれている尾張時代の藤吉郎の功績にはこうした創作や、事実を誇大に捻じ曲げた物が非常に多いので注意が必要です。
話が少し逸れましたが、藤吉郎がどうやって織田家の中で侍大将にまで登り詰めたのかは不明ですが、彼が織田家の中で出世するきっかけとなった出来事があります。
それは寧々*6との婚姻です。
寧々は浅野長勝の養女となっています。浅野家は代々丹羽郡浅野荘の国人領主で、長勝は信長直属の弓衆を努めています。*7対してこの頃の藤吉郎の身分は高く無く、と言うより織田家に仕官していたのかどうかも分からない状態です。
しかし信長直属の弓衆の娘婿となれば信長に謁見することも可能になります。
私は木下藤吉郎秀吉は寧々との婚姻によって信長の家臣になった。と考えています。
*1:豊臣秀吉の事績を記した書物の中で比較的信頼できるものとしては川角三郎右衛門が秀吉の側近から聞き書きした物をまとめた『川角太閤記』と秀吉の側近大村由己が書いた『天正記』が挙げられますが、両書とも天正年間からの書き出しとなっており信長家臣時代の記述はありません。
*2:話は逸れますが明智光秀は巻一にも登場しません。彼の名が出て来るのは巻二冒頭将軍義昭が三好三人衆達に攻められた時の護衛兵の一人として書かれているのが初めてです(図1の②)。巻一は織田信長が足利義昭を擁して上洛する記事がメインなのに、そこに信長と義昭の仲を取り持ったとされる光秀が全く登場しないのは非常に興味深いです。
*3:この時の書状は右筆が書いたようですが、秀吉自身の自筆の書状もたくさん残っており、漢字もきっちり使っています(但し相当な悪筆のようです)。なので藤吉郎は農民出身の文字も書けない無学な人間だったのと説は間違いです。
*4:『甫庵太閤記』や『絵本太閤記』等悪名高き?江戸時代の軍記物に載っている。昭和に入り作家の吉川英治氏が『新書太閤記』にて記述した為、一躍世に広まった。
*5:『絵本太閤記』に載っていた記事なので信用されていなかったが、1987年に刊行された『武功夜話』(人物往来社刊)に詳細に記述されていたので「本当の話だった」として一躍注目された。しかしその後『武功夜話』自体が偽書と断定された為、現在では「一夜城」の話は創作と確定されている。「一夜城」及び『武功夜話』に関しては藤本正行氏が自著「信長の戦争」の中で分かりやすく解説されています。
*6:秀吉正室、後の北政所、高台院。諱には「おね」や「寧」等色々な説がありますが、ここでは便宜上一番有名な「寧々」を使わせて頂きます。
*7:『信長公記』首巻に弓三張の衆の一人として太田叉介(牛一)と供に浅野叉右衛門が「(常に信長の)側に控えていた」と書かれています(図2)。叉右衛門は浅野長勝の通名です。