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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

【補論】その7ー木下藤吉郎はどうやって信長の家臣になったのか?②

前回木下藤吉郎は寧々と結婚した事により名門浅野家の縁者になった為信長の家臣になる事ができたとの説を提唱いたしました。
今回はこの説を提唱した根拠をもう少し深堀りしてみたいと思います。
藤吉郎と寧々の結婚は史実であるのは間違いないのですが、それはいつだったのか?

図1:『太閤素生記』481~482P(史籍収攬第23冊収蔵)

通説では桶狭間の翌年永禄4年(1561年)の事とされています。しかしその典拠となる史料はいくら探しても分かりませんでした。*1
只、永禄4年時点で藤吉郎は24歳*2ぐらいですのでこの時代の結婚年齢としては非常に遅いと言えます。
ちまたの説では藤吉郎は十代の頃は三河遠江を放浪し、一時は今川家臣頭陀寺ずだじ城主の松下氏に仕えたていたので結婚するのが遅くなったとされていますが、私はこの放浪は眉唾物と考えています。『太閤素生記』では松下加兵衛が「猿ヲ見付」家臣にしたと書かれていますが(図1の②)、藤吉郎を「猿」と呼んでる時点で江戸期の創作と判断できますし*3、他の松下氏に仕えたと書かれている書物も全て信頼のおけない江戸期の軍記物ばかりです。
ところで藤吉郎と寧々との結婚において一つ不思議なことがあるのですが皆さんお気づきでしょうか?

図2:浅野家家系図(wikipediaより抜粋)

それは藤吉郎は寧々を嫁に貰っていると言う事です。藤吉郎の木下家と寧々の浅野家では家格が違いすぎます。叉右衛門には実子がいず、更に養子も女性だけです。ですから藤吉郎が浅野家の跡取りとして婿養子に入るのが普通なのです。なのに彼は結婚後も木下姓を名乗り続けています。*4仕方なしに叉右衛門はもう一人の養女に婿養子を取らせ跡取りとしています。*5
では藤吉郎が寧々を嫁に迎えることができる程木下家は実は名家だったのでしょうか?それなら何らかの史料に藤吉郎の実父弥右衛門又は養父の竹阿弥の名が出て来ても良い筈ですが、彼らの名が出て来るのは江戸期の軍記物ばかりで、本当に実在したのかも定かではありません。
やはりここは藤吉郎がお得意の口八丁で浅野叉右衛門をうまくたぶらかして(笑)寧々を嫁に貰ったと考えるのが良いでしょう。
話が少し横にずれましたが、現在語られている侍大将になる前の藤吉郎の事績は殆ど江戸期の虚構と考えるべきなのです。
事実として確定していることは、藤吉郎はいつの頃か分からないが浅野叉右衛門(長勝)の養女であった寧々と結婚し、前回説明したように永禄8年(1565年)には信長の出した書状に副状を付ける程出世しており、永禄11年には佐久間信盛丹羽長秀と同列の侍大将として供に箕作城を攻めたと言う事だけなのです。
つまり藤吉郎が織田軍の中で出世して行く転機となった事象は寧々との婚姻だけと言う事になります。
但し信長直臣の浅野叉右衛門の一族になると言う事はその後の人生を激変させ得るに足る大きな出来事なのです。
藤吉郎が寧々と結婚する前から織田家の家臣になっていたのかは不明ですが、少なくとも
木下藤吉郎は寧々との婚姻を機に織田家の中で急速に出世していった
事だけは間違いありません。

*1:藤吉郎と寧々の婚姻が記述されている『太閤素生記』(図1の①)や『絵本太閤記』等の軍記物にもいつ行われたのかは書かれていません。

*2:秀吉の生年は天文5年(1535年)1月1日とされてきたが現在では天文6年(1536年)が有力とされているので24歳としました。しかしこの説も典拠となる史料は不明です。

*3:歴史ドラマではよく信長が藤吉郎の事を「猿」と呼んでる場面に出くわしますが、良質な史料にはそのような記述は一切見られません。但し信長が藤吉郎の事を「はげねずみ」と書いている書状(信長が寧々にあてた手紙:年代不明、個人蔵)は存在しています(笑)。

*4:実際には婿養子に入ったのだが義父より出世した為木下姓に戻したとの説もありますが、浅野藤吉郎と署名した書状でも出てこない限り信じられません。

*5:後の長生院、寧々の実妹(異説もあり)。婿養子になったのは長勝の甥に当たる弥兵衛。その後浅野家の家督を継いで14代当主浅野長政となる。