現在織田信長の研究において『信長公記』は無くてはならない存在になっています。特に上洛までの前半生に関しては史料として使える物が非常に少なく、この時期の出来事が詳細に書かれている書物は江戸時代に書かれた軍記物(=歴史小説)が殆どです。
その為現在では「桶狭間の戦い」の研究において殆ど全ての歴史家が『信長公記首巻』の記述を基に持論を展開されています。
では『信長公記』の記述は全て信用して良いのでしょうか?一年毎に纏めた通称『十五帖』においては明確に事実と異なる記述は見つかりません。しかし『首巻』においては事実では無いと確定されている記述が存在します。また時間の流れが前後していたり、記述が重複していたり、文章が尻切れトンボになっていたり*1と非常に乱雑な内容となっています。
その中でも最大の問題は和暦が記入されている箇所が7ヶ所しかない事。そしてその内の3ヵ所が「桶狭間の戦い」の章に集中している上に天文21年(1552年)と実際より8年も前に起こったとしている点です。(図2)*2
この記述は明らかに間違いなので『信長公記』の『首巻』は歴史史料として不適格だとの意見も多くあります。しかし最初に述べましたように信長の前半生が描かれている書物は俗に言う「軍記物」が殆どです。
対して『信長公記』は「軍記物」のような小説とは違い殆どの記述に月日が挿入されており、どちらかと言うとその時に書き綴った「日記」に近い手法で描かれています。
作者の太田牛一は昔からその時起った出来事を書き留めたメモや日記を多く保存しており、それを基に執筆したと言っています(図3)ので「一次史料」の定義である「その時、その場で、その人が」に当てはまるとして良いでしょう。*3
このように描かれている主人公と同時代に生き、終始近くにいた人物が書いた歴史書物と言うのは実はなかなか存在しません。その時はまだ子供であったか生まれていなかった人物が後の時代に書いた物が殆どとなっています。*4
以上の観点から『信長公記首巻』は歴史研究の上で非常に優良な史料として良いと考えられます。但し中身を100%信用することはできません。書いてあることが真実であるかどうか慎重に吟味する必要があります。
ではどのように吟味すれば良いのでしょうか?上に述べた「天文21年」の問題は信長が桶狭間での勝利を記念して「永禄三年五月十九日義元討捕」と銘刻した刀と言う一次史料が残っていた為*5明確に間違いと確定されましたが、このような「一次史料」は滅多に残っていません。
ですので『首巻』の記述に関しては他のある程度信頼できる史料*6と比較しながら、書いてあることに論理的矛盾が発生していないか*7を吟味することを心掛ければ非常に有用な史料であると言えるでしょう。
つまり一次史料による反証や論理的矛盾が発見されない限り『信長公記』の文章は素直に真実として取り扱うべきだと私は考えています。
*1:7/28投稿『信長公記』を読み解くその13ー何故文章が尻切れトンボになっているのか?を参照
*2:『信長公記首巻』の和暦問題については4/28~5/12の投稿『信長公記』を読み解くその2~4ー何故天文21年と偽ったのか?①~③で詳細に考察させて頂きました。なお通説では間違った和暦は「天文21年」だけになっていますが私は「永禄4年」の西美濃乱入の和暦(図2の⑦)も実際はもっと後だったと考えています。
*3:前回私は国会図書館が定めた「一次史料」の定義では伝聞情報が含まれるため定義を「その時、その場で、その人が実際に体験した事」であるべきとしました。『信長公記首巻』には伝聞情報も多く含まれていると考えられますが、実際に体験した仲間から殆ど時を置かずに聞き取りをしているようですので「1.5次史料」ぐらいだと考えています。
*4:桶狭間が記述されている書物で見ても『甫庵信長記』の小瀬甫庵は4年後の永禄7年生まれ。『三河物語』の大久保忠教(彦左衛門)でさえ永禄3年桶狭間の年生まれです。なお信長勝利の原因を今川勢の乱取り(制圧した地域の住民から略奪すること)とした「甲陽軍鑑」は高坂弾正(虎綱)の口伝と一応されていますが、仮にそうであっても虎綱は遠く離れた甲州にいました。
*5:4/28投稿『信長公記』を読み解くその2-何故天文21年と偽ったのか?①参照
*6:ある程度信頼できる史料にどれが当たるかもなかなか難しい問題です。私は桶狭間の考察において「起こった出来事より100年以内に書かれおり、作者が確定している物」は真実が含まれている可能性があると考え、『甫庵信長記』と『三河物語』を比較考察対象としました。
*7:一例を上げると今川の兵数4万5千(1/16投稿桶狭間検証その3ー信長と義元実際の兵力差は?を参照)及び桶狭間で討ち取られた首数3千(10/13投稿『信長公記』を読み解くその20ー今川軍は何人討ち取られたのか?を参照)は論理的に矛盾が生じていると考えています。