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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

【私小説】桶狭間の戦いーその1

前回私は『信長公記』は「そこに書いてある事が事実で無いと確定されない限り素直に真実である物として扱うべき」としました。
その考えに基づいて4月から20回に渡って「『信長公記』を読み解く」と題し、『首巻』桶狭間の記述の一字一句に対し「他の史料と比較して問題ないか?」「論理的に矛盾していないか?」を考察して来ました。
そしてその過程で今まで気づかなかった色々なことが分かって来ました。
今回からは新しく気付いた事を取り入れ、自分なりの「桶狭間の戦い」を構築してみたいと思います。但しこれから述べる事は史料の裏付けの無い事柄も多く含まれますので「」では無く「小説」としてお読みください。

図1:『信長公記首巻』桶狭間記述部分①(改訂史籍収攬収録町田本)

永禄3年5月17日(西暦1560年6月12日)*1今川義元は1万弱の大軍*2を率いて沓掛城に着陣します。そして翌18日昼過ぎに沓掛を立ち、輿にて移動。日暮れ頃に大高城に入ります*3。なお義元入城後万一織田軍が大軍で来襲してきた場合、長期間大高に滞在する可能性があるので兵糧を追加で入れました。*4
その頃清州城では鷲津・丸根守将の佐久間大學、織田玄播より「19日早朝潮が引いて大高川の水位が低い内に*5今川軍が攻めて来るのは間違いありません。(早く後詰に来てください。)」との注進が届きます。しかし信長は出陣の命令を出すわけでもなく、夜の定例会でもいくさの話は全くしません。清州の重臣達は「(いつも素晴らしい作戦を立てるのに今回は何も無いのか?長年味方をしてくれていた大學と玄播を見殺しにするとは)ついに知恵の鏡も曇ってしまったようだ。」と揶揄やゆします*6。しかし美濃の斎藤義龍が後方に控えている為大軍を派遣することもできないし、かと言って撤退させようにも大高に今川の大軍が入った状況では簡単に追撃されてしまいます。信長自身も何の命令も出せない状況にはらわたが煮えくり返っていました。*7
翌19日朝6時頃ついに佐久間大學・織田玄播から今川軍が攻めかかって来たとの注進が届くと、信長は堪忍袋の緒が切れて出陣の法螺ほらを吹かせ清州を飛び出してしまいます。
側に控えていた子飼いの小姓6名も慌てて騎馬にて後を追います。直属の足軽達約200名も出立しますが何分なにぶんにも徒歩なので遅れてしまいます。しかし織田家重臣達は誰も追随しません。*8
信長は熱田神宮に着くと足軽達の到着を待ちます。その時東の大高方面を望遠すると2か所から煙が立ち上っているのが見えました。早くも鷲津・丸根砦は陥落してしまったようです。

図2:熱田から丹下砦までの下道と上道の想定経路(再掲)

それでも信長は進軍を止めません。8時半過ぎに自身を含めた騎馬6騎と足軽約200人のみで熱田を立ち丹下砦に向かいますが、海沿いの道は満ち潮で冠水し通れず大きく迂回した為(図2)、丹下砦に着いた時には9時半頃になっていました。*9

*1:天文21年(図1ー①③)は間違いで確定。4/28投稿『信長公記』を読み解くその2-何故天文21年と偽ったのか?①を参照。

*2:4万5千(図1ー②)は間違いで確定。1万弱とした理由は1/16投稿桶狭間検証その3ー信長と義元実際の兵力差は?を参照

*3:三河物語』の記述と比較した上で『信長公記』を読み直した結果、義元は18日夜に大高に入城したと書いてあると判断しました。詳細は6/2投稿『信長公記』を読み解くその6ー義元は18日何をしていた?②を参照

*4:大高城は丸根・鷲津砦に阻まれ困窮していたのが通説ですが、『信長公記』にはそのような記述はありません。また地図を見る限り丸根・鷲津だけで大高城を封鎖できるとは思えません。詳細は8/4投稿『信長公記』を読み解くその14ー家康は大高城兵糧入れに苦労したのか?を参照。

*5:信長公記』の「無助様に十九日朝しおの満干を勘かへ」の記述を織田軍が鷲津・丸根砦の救援に来れない様満ち潮の時に攻めて来るとの説が多いですが、今川軍が両砦を攻撃し始めたのは引き潮の時です。6/16投稿【補論】その3ー義元は満潮時に砦を攻撃していない。を参照

*6:この部分私は最初重臣達は信長が仲間の佐久間大學と織田玄播を見殺ししようとしている事に対しいきどおっていると解釈していました。しかし『信長公記』は「嘲哢ちょうろう」と書いている為、家臣達は熱く「憤っている」のでは無く冷たく「あざけって」いる事になり、信長と清州の重臣達の関係は良好で無い事がうかがえます。

*7:信長は最初から少数精鋭で今川本陣を強襲するつもりであり、その作戦が漏れないように味方をも欺いたとの説を多く見かけますが、それは桶狭間で義元を討ち取った結果から導き出した論理だとしか私には思えません。『信長公記』を読む限り、信長が勝算を持って清州を出陣した形跡はこれっぽちもありません。詳細は6/9投稿『信長公記』を読み解くその7ー信長は清州城でなぜ戦評定を行わなかったのか?を参照

*8:柴田勝家丹羽長秀等の重臣達はそれぞれ自分達の領地を持った国人領主であり、信長の家臣と言うより織田家の家臣です。またこの時期の信長はまだ尾張を統一したばかりで後に「第六天魔王」と呼ばれるほどの絶対的権力は持っていません。なので彼らは信長からの出陣要請無しに動く事はありません。詳細は6/30投稿『信長公記』を読み解くその9ー桶狭間に清州の重臣達は参加したのか?を参照

*9:9/29投稿私見その2ー信長と義元の行軍時系列表を作成してみた①を参照