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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

【私小説】桶狭間の戦いーその2

今川義元は丸根・鷲津陥落後信長の来襲に備え大高城で待ち構えていましたが、砦が落ちて2時間以上たっても織田軍がやって来ないので「もう敵は攻めてこない。今日の戦いは終わった。」と判断し、大高城の守備兵を増強した上で、10時前に一旦沓掛城に引き上げる為に移動を始めます。

図1再掲:織田・今川行軍時系列表

一方信長は9時半頃丹下砦に着きましたが、足軽約200人が到着したのは10時半過ぎでした。その後砦の守備兵約100人を自軍に加え、騎馬6騎、歩兵約300人で出立、11時頃に善照寺砦に到着します。(図1の⑥~⑨)*1
そしてこの行動は鳴海城から見えていました。しかし鳴海城主岡部元信は信長達が砦が落ちて2時間以上も経ってからたった300人程でやって来た理由が分からず静観します。
その頃南尾張一帯には信長以外にも何百人かの織田方の兵がやって来ていて、進軍してきた今川軍にゲリラ戦を仕掛けていました。*2
彼らは信長の指示無しに独断でやって来ていました。*3その中でも千秋四郎(通称季忠)と佐々隼人(通称政次)は信長の直臣では無かった事もあり、無断出兵を咎められるのを恐れて自分達約300人だけで高根山あたりに布陣していた今川軍に突撃を仕掛け、玉砕してしまいます。*4
この時には義元は既に桶狭間山に着陣していましたが、彼の元には信長来襲の報告はもたらされていませんでした。まさか信長がやって来ているとは露とも思っていなかった義元は主力部隊を先行して沓掛方面に撤退させ、自身は桶狭間山に留まって謡をうたったりしながらゆったりとくつろいでいました。*5
その後も高根山付近で佐々・千秋の軍を自軍の兵達が迎撃し粉砕したのを見て更に謡をうたっていましたが、その間に信長一行は中島砦に入ります。これを見て独断でやって来ていた前田叉左達信長子飼いの兵達も中島砦に合流した為、兵数は千人程になりました。*6

図2再掲:中島砦からの進軍予想図(今昔マップ1888年国土地理院地図を使用)

信長はこれを見て十分戦えると判断し、鷲津・丸根砦近辺に残っていた兵達に向かって進軍します(図2)。*7
これを確認した鳴海の岡部元信は「信長は手も足も出せなかったと言われなるのが嫌で出てきただけのようだ。戦場に残っている今川軍にちょっかいを出してすぐに帰っていくだろう。好きにさせておけ。」と考え静観を貫きます。元信は義元を始めとする今川本隊と主力部隊は既に沓掛城に撤退したと考えていた為、義元本隊に信長来襲の伝令も飛ばしませんでした。彼は義元が桶狭間山に在陣している事を知らなかったのです。
また佐々・千秋を撃退した今川兵達も信長が自分達の方に向かって来ず、南に向かった為これまた義元には報告しませんでした。*8
丸根・鷲津砦近辺に残っていた今川兵達は織田軍が向かって来るのを見て慌てて大高城に撤退します。*9信長一行はここで追うのを諦め、進路を東に転換し、中島砦から東に見えていたもう一つの今川の部隊に向けて丘陵地帯の山間を縫いながら進軍します。*10
この時今川義元織田信長の軍が迫って来ているとは全く想像もしていず、信長も進軍先に義元がいるとは予想だにしていませんでした。

*1:9/29投稿私見その2ー信長と義元の行軍時系列表を作成してみた①を参照

*2:千秋四郎や佐々隼人、前田叉左達は鷲津・丸根の守備兵だったとの説を目にしますが、『信長公記』には各砦の守備兵を綿密に記述しており、その中に千秋・佐々の名は見当たりません。なので信長とは別行動で南尾張にやって来ていたと解釈すべきだと考えます。詳細は8/25投稿『信長公記』を読み解くその17-前田利家は何故桶狭間にいたのか?を参照

*3:信長と別行動で南尾張にやって来ていた織田方の兵達は何をしようとしていたのか?私は今川の攻撃兵にゲリラ戦を仕掛けて彼らの装備を奪ってしまおうと言う私利私欲で行動したのではないか?なので子飼いの前田叉左達は良いとしても、外様の佐々と千秋は信長本隊への合流に躊躇したのではないかと考えています。

*4:8/11投稿『信長公記』を読み解くその15-佐々と千秋は何故玉砕したのか?を参照

*5:私は義元が何故桶狭間山着陣後謡を3番もうたったたりしながら長時間在陣したのかが重要な問題だと考えています。7/21投稿『信長公記』を読み解くその12-何故今川義元桶狭間山に陣取ったのか?②を参照

*6:信長公記』ではこの時の信長の兵数を「二千に不足のご人籔」と非常に曖昧にしか書かれていませんが私は千人前後だと考えています。詳細は6/30投稿『信長公記』を読み解くその9ー桶狭間に清州の重臣達は参加したのか?を参照

*7:信長はこれから攻めようとしている今川軍を指して「鷲津丸根にて手を砕き辛勞してつかれたる武者」と言ってますので、単純に考えて両砦近辺に今川軍が残っていてそちらに向かって進軍したと考えるべきだと私は考えています。詳細は8/18投稿『信長公記』を読み解くその16-信長はどの兵を指して「あの武者」と言ったのか?を参照

*8:今川軍の軍団統制は義元から武将達に命令を出す一方通行な物で、武将隊から大名に情報を伝える体制が無かったと私は考えています。詳細は7/7投稿『信長公記』を読み解くその10ー岡部元信は何をしていた?を参照

*9:この部分は『三河物語』で石河六左衛門がいた場所を鷲津or丸根砦と比定して述べています。詳細は9/15投稿私見その1ー信長はどこへ行った?②参照

*10:9/15投稿私見その1ー信長はどこへ行った?②参照