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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

【私小説】桶狭間の戦いーその3

図1再掲:中島砦からの進軍予想図(今昔マップ1888年国土地理院地図を使用)

織田信長が幕山・高根山に向かって南尾張一帯に連なる丘陵地帯の山間やまあいを突き進んで行くと前方の小山に多くののぼりが立ってるのが見えました。(図1参照)
目を凝らして幟の家紋を見てみると二引両に五三の桐、何と今川義元本陣ではないですか!信長は今川主力軍は既に撤退済みと思い込んでいましたが、どうやら最悪の失態を犯してしまったようです。
大高城から沓掛方面に撤退した筈の義元本隊が何故なにゆえ中間にある桶狭間の地に布陣しているのか?自分達が桶狭間にやって来たとの情報を得てここで待ち構えていたのか?信長は全身から血の気が引いてしまいました。

図2:『信長公記首巻』義元討死部分(改訂史籍収攬収録町田本)

しかしまだ敵方はこちらに気づいていないようです。この危機をどう切り抜けようか思案していると、空がにわかき曇りまたたく間に暴風雨となりました。幸運なことに風が西から東に吹いた為西側を向いていた今川本陣の兵達は正面から豪雨を浴び大混乱ですが、信長一行は東に向いていた為雨は背中から降りかかり前方を見通し続ける事ができました。(図2の①)
そこで雨が降っている間今川本陣の様子を窺っていると意外と兵は少なく300人程しかいないようです*1。また周りに他の部隊が駐屯しているようにも見えません。信長にはどう考えても義元が自分達を待ち構えてここに陣を敷いたようには思えませんでした。
空が晴れ渡ると信長は一世一代の賭けに出ます。「敵が自分達を待ち受けていたとしたらここまで進軍してしまった今となってはもう逃げられない。ならば自分の直感を信じて突き進むしかない。」彼はこう考えたのです。
幕山・高根山に陣取っていると見られる今川兵に対する抑えとして佐久間右衛門(信盛)の部隊を中心に5百人程を置いて*2、信長は残り5百人で桶狭間山を一気に駆け上り敵の本陣に突撃しました*3。(図2の②)

図3:桶狭間山と今川本陣跡(2022年12月11日撮影)

すると義元本陣の兵達は向かってきません。それどころか全く信長の来襲を予期していなかったようで慌てふためいて義元を取り囲みながら山上に逃げていきます。*4
ここに来て信長は自分の直感が当たったと確信します。彼は部下達に一斉攻撃を命じます(図2の②)。義元の護衛達は信長軍の波状攻撃に1人2人と討ち取られていき(図2の③)、ついに服部小平太が義元本人に切り掛かります。義元も応戦し小平太の膝を切りつけますが横から毛利新介が飛び掛かり義元の頸を掻き切りました(図2の④)。何と野戦にて敵の総大将が頸を取られると言う前代未聞の事態が起こってしまったのです。
信長は想像以上の戦果に全身の血が沸き上がる高揚感に包まれながらも疑念を抱かざるを得ませんでした。
「義元は何故主力部隊を沓掛に帰し、僅かな人数でこんな中途半端な場所に陣を構え、長時間に渡り在陣していたのか?奴はここで何をしていたのだろう?」と。

*1:9/22投稿『信長公記』を読み解くその19ー今川の大軍はどこにいた?を参照

*2:私は善照寺砦守将佐久間右衛門が抑えとして残ったと想像しています。と言うのも『信長公記』には善照寺砦で「御人籔立てられ」と砦の兵を糾合きゅうごうしたと記しているのに、その後の記述に右衛門の名が一切出てこないからです。

*3:信長公記』には信長の兵数を「二千に不足御人籔」とあやふやな書き方をしています。殆どの歴史家の方々はこれを「約2千人」と解釈していますが、私は信長の兵数は千人程しかいなかったと考えています。理由は6/30投稿『信長公記』を読み解くその9ー桶狭間に清州の重臣達は参加したのか?をお読みください。

*4:現在義元本陣は桶狭間山山頂ではなく中腹辺りにあったとする説が主流となってます(図3参照)。確かに山頂は通常手狭の為本陣を敷くには適していません。但し物見の兵は必ず置く筈です。なら信長の接近に気付かなければおかしいのですが、そうすると義元が簡単に討ち取られた説明がつきません。私は物見の兵達は中島砦がある北西(戌亥)の方ばかり警戒して大高城がある西側は今川の制陸圏と認識していて全くの無警戒であったのではないかと考えています。