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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその3-何故天文21年と偽ったのか?②

前回までで太田牛一がわざと「天文21年(1552年)壬子」と記したことを述べました。
では桶狭間以外での記述はどうなっているのでしょうか?
信長公記』の巻一から巻十五は1年毎にまとめられたものなので、巻頭に和暦が書かれているだけで何年の出来事か分かるようになっています。ですから原則文中には和暦の記入はありません。
対して首巻は十数年にまたがる期間の出来事が記述されていて、文量は約40ページ*1に及んでいます。しかし、その中で和暦や干支かんしが書かれているのはたった7箇所しかありません。
では時間軸に沿って描かれているかと言うとそうでも無いので、首巻に書かれている出来事はいつの事なのか非常に分かりづらいのです。
大体約40ページに及ぶ文章の中で7箇所しかない和暦記入の内、3箇所がわずか4ページの桶狭間の記事の中に書かれているのは異常過ぎです。

図1信長公記首巻年号記述部分抜粋(改訂史籍収攬収録町田本)

図1に首巻の中で年号が記されている部分を記述順に抜き出してみました。
①天文22年は西暦1553年で、信秀死去後すぐに鳴海城主山口左馬助さまのすけが今川方に寝返った時に起こった「赤塚合戦」の記述
②弘治2年は西暦1556年で、弟勘十郎が信長に反旗をひるがえし、勘十郎側に付いた柴田権六・林美作みまさかが信長と戦った「稲生いのうの戦い」の記述
そして③~⑤天文21年は1552年で全て「桶狭間の戦い」の記述
⑥弘治4年は1558年で、弟勘十郎を清州城にて切腹させた記述
⑦永禄4年は1561年で、墨俣*2に砦を築いて西美濃を攻めた記述。
まずは、桶狭間の和暦が間違えているのは取り敢えず横に置いといて、読んでみてください。
なんかおかしくないですか?記述の時間経過が滅茶苦茶ですよね。
まず天文22年(1553年)山口左馬助寝返りの記述の後、弘治2年(1556年)勘十郎反逆を記し、その次に天文21年(1552年)までさかのぼって桶狭間の戦いを入れ、その後弘治4年(1558年)まで飛んで勘十郎切腹
桶狭間の戦い」が入ってる場所がおかしすぎます。本来なら「赤塚合戦」の前に入れるべきですが、そうすると左馬助が今川方に寝返ったのが原因で起こった「桶狭間の戦い」が左馬助裏切りの前に起こるという、SF小説のような話になってしまいます。
大体桶狭間を天文21年(1552年)と実際より8年も前の設定にすること自体無謀なのです。お陰で誰が見てもおかしな構成になってしまいました。(「陽明本」「町田本」「南葵本」の写筆者はおかしいと感じなかったのでしょうか?)
また「桶狭間の戦い」を天文21年(1552年)のこととして、弘治2年(1556年)と弘治4年(1558年)の間に挿し込んだのも非常に不可解です。
なぜなら弘治2年(1556年)の勘十郎反逆と弘治4年(1558年)勘十郎切腹は一連の事件であり、連続して語られるべき内容であるからです。
更にこれは他の方があまり語られていないのが不思議なんですが、⑦西美濃を攻め1日で引き上げただけの大して重要でない戦いに、何故「永禄4年辛酉かのととり」と干支付きで和暦を入れたのか?道三討ち死にの記事には日付しか入れていないのに。
私は西美濃攻めは実際はもっと後に行われた筈だと考えています。
なぜなら永禄4年は実際に「桶狭間の戦い」が行われた翌年に当たるからです。
この時期はまだ松平元康(後の徳川家康)は信長と同盟していず、*3今川方でした。
信長公記』にも「桶狭間の戦い」の翌年三河梅ヶ坪城に出兵した記事がありますので、永禄4年に西美濃出兵は不可能な筈です。
これも「桶狭間の戦い」を無理やり天文21年にしたために、ここに永禄4年の和暦を挿入し、帳尻合わせをしようとしたのではないでしょうか?

*1:改訂史籍収攬収録『信長公記』活字本のページ数を数えました。

*2:墨俣と書くと秀吉の「一夜城」が有名ですが、これは200年以上後の寛政9年(1797年)に刊行された『絵本太閤記』で初めて書かれたもので、明らかな創作です。ただ、この本は大いに売れ、人形浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなった為、秀吉の出世物語として定着してしまいました。

*3:通説では信長と家康は永禄5年に同盟を結んだことになってますが(清州同盟)『信長公記首巻』にはこの記事はありませんし、『甫庵信長記』にも書かれていません。二人が同盟を結んだのはその後の行動から確かなんですが、いつどこでどうやって締結されたのかは解明されていません。