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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

【桶狭間研究】もう一つの桶狭間その10ー義元が古戦場伝説地の近くで討死にした可能性は大有り

前回、織田信長に東から攻めかかられた今川義元はどこへ退却しようとしたのかの考察を行いました。その結果、桶狭間山から南東に下って大高道へ出るルートは、急斜面の為困難と推察しました。では、なだらかに下れる斜面はあるのでしょうか?

図1:信長公記の記述から考えられる今川義元撤退経路(1888~98年今昔マップ使用)

明治24年(1896年)測図の今昔マップを見てみると、桶狭間山の北北東側は南側より大分傾斜が緩やかになっています。更に40~50m程の丘陵が続いており、湿地帯もありません。*1
ですので、私は今川義元は桶狭間山から北北東方面に続くなだらかな斜面を下りながら退却したと考えています。(図1のルート2)

図2:『信長公記首巻』33・34P(改訂史籍収攬収録町田本)

『信長公記』には「初ハ三百騎計眞丸になつて義元を囲み退けるか(中略)次第に無人に成て」と護衛兵達が今川義元を守りながら退いていく様子が描かれています。(図1の①)
この記述から私は今川義元が討たれたのは桶狭間山から北北東に下った所だと考えています。そしてその方向には豊明の「桶狭間古戦場伝説地」があるのです。
古戦場伝説地は、今川義元が討死したとされる場所にあった塚を訪れた尾張藩士の人見弥右衛門と赤林孫七郎が、明和8年(1771年)に石碑(七石表)を建てたのが始まりです。つまりこの場所には古くから残る塚(=墓)が多数あったのです。現在では古戦場伝説地にある塚は全く別人の墓とされていますが、今川義元が信長の攻撃を受けながら北北東に退却したのなら、古戦場伝説地の塚が義元護衛兵達の墓*2である可能性は十分あるのではないでしょうか?
『信長公記』には義元の護衛兵達は最初三百人程いて信長軍の攻撃を「二三度四五度」撃退しながら後退して行ったと書かれていますので、今川義元は桶狭間山から結構離れた場所まで退却してから討たれたと考えられます。桶狭間山から豊明の「古戦場伝説地」までの距離は約1kmです。信長の攻撃を五度も撃退しながら退却したのなら、1km程後退したところで討たれたとしても不思議ではありません。
残る問題は、では古戦場伝説地辺りで討たれた義元の護衛兵達の遺体を誰が埋葬したのかと言う事です。*3当時の古戦場伝説地辺りに集落は無く、人一人住んでいない場所だったからです。
桶狭間山の南西には、当時の桶狭間村の村人たちが村の北側にある深田で戦死した今川兵達を埋葬したとされる『七ツ塚』が残されており、古戦場保存会のHPでは討死にした今川の兵達*4を信長が葬るよう村人たちに指示したとの伝承が残っていると説明しています。信長が命令したかは疑問ですが、当時は合戦で死亡した兵達の亡骸なきがらはその地域の村人たちが片づけて供養するのが一般的でした。恐らく腐敗などの衛生的観点から村人が嫌々片づけていたのでしょう。

図3:今川兵達を埋葬したとされる塚群(古戦場公園案内板使用)

とすると豊明の古戦場伝説地の塚も今川兵達の遺体を地元の村人達(恐らくこの辺りの土地を耕作していた大脇村の村民達でしょう。)が埋葬して塚を築いたと考えられないでしょうか?
以上の考察から
豊明の古戦場伝説地の近くで今川義元が討死した可能性は十分あると私は考えています。
少なくとも桶狭間山の西にある緑区の古戦場公園よりも、北北東にある豊明市の古戦場伝説地の方が可能性が高いことは確かです。

*1:『信長公記』には「深田ににげ入者ハ(中略)手々に頸をとり」(図2の②)との記述がある為、今川義元は深田で頸を取られたと説明している先生方が多いですが(古戦場保存会の方々もそう考えているようです)、深田で頸を取られたのは大将が討たれて逃げ回っていた今川の兵達であって、義元が深田で討たれたとは書いていません。

*2:古戦場伝説地の七石表の一号碑は今川義元の塚のあった場所に建てたとなっていますが、ここに義元の遺体が埋まっている事はあり得ませんし、遺体を埋めずに塚を作るのもおかしいです。なので石碑を建てた人見弥右衛門と赤林孫七郎は単に一番大きな塚を義元の墓としただけではないでしょうか?

*3:今川義元の頸は信長が清州に持ち帰りましたが、胴体は戦場に残されました。そして今川の生き残った兵達によって豊川の大聖寺まで運ばれたとの伝承が残っています。(今川義元公墓所(大聖寺) | ぐるっと豊川 | 豊川市観光協会)しかし、今川の残兵達に戦死した兵達まで埋葬する余裕があったとは思えません。

*4:七ツ塚に埋葬された兵達を義元本陣の兵達とし、義元がこの辺りで討ち取られたとの説を目にします。しかし七ツ塚は桶狭間山の南西方向で古戦場公園のすぐ北側にある為、今川本陣の兵達とは考えられません。この塚のすぐ西側には今川前軍が陣取っていた高根山があるので、この部隊が義元の救援に駆け付けようとしてここで討たれたと私は考えています。