ようこそケビンの部屋へ

自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

【桶狭間研究】もう一つの桶狭間その3ー伝説地を支持する人々の考え

前回、豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」は今川義元が実際に討死にした場所ではなく、江戸時代に東海道沿いの場所に作られた観光名所である。その為義元の墓を始めとした伝説地にある史跡群は江戸時代になってから新しく建てられたものか、移設されて来たものと考えられていると論じました。
では豊明市の伝説地を支持している人達はどのように考えているのでしょうか?
「桶狭間古戦場伝説地」には4~6月の毎日と9~11月の土日祝の9:30~15:30までボランティアの方が公園に待機していて、無料でガイドをしてくれています。*1
なので私もこの時間に伝説地に伺って、ボランティアの方々の説明を聞くと供に、根掘り葉掘り質問をさせて頂いたことがあります。

図1:豊明市桶狭間古戦場伝説地案内板

私が話を伺ったガイドの方は公園内にある案内板の前で地図を指し示しながら懇切丁寧に説明してくださいました。
まずガイドさんは「今川義元が永禄3年5月19日朝に沓掛城を発って豊明の古戦場伝説地まで進軍して来た時に、前方で織田軍との戦闘(佐々・千秋隊の突撃)が起こったのとの報告が届いた。その為義元はこの地で一旦輿を降りて臨時の陣を張って戦況を窺っていた。そこへ織田軍撃破の報せがあったのを受けて勝利の謡をうたった。」と案内板を指し示しながら説明されました。
話は少し脇へ逸れますが、ここで一つ多くの方が誤解されている事を(ガイドさんも誤解されているようでしたが)説明しておかなければなりません。「信長公記」では桶狭間の戦いの場面で今川義元が「謡をうたはせ」と書かれている部分が2箇所もあります。

図2:信長公記首巻「謡をうたはせ」記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)

その為多くの方が「今川義元は勝利におごって歌など謡って油断していた」と考えているようですが、義元は勝利に奢って「歌をうた」ったのではなく、ましてや油断していたわけでもありません。ここで言う「謡をうた」うとは「謡曲を舞った」との意味なのです。謡曲とは能の台本の一部を節をつけて謡う事を言います。つまり義元は初戦の勝利を祝しておごそかに能の一節を謡って神に感謝をするとともに配下の武将達を鼓舞したのであって、謡をうたったからと言って今川義元が油断していた事にはこれっぽっちもなりません。
話を元に戻しましょう。
ここまでのガイドさんの説明は非常に理に適ったものです。中でも「進行先で織田軍との戦闘が起こったので、一旦この場所(豊明の伝説地)で輿を止めた」との話は思わず「成る程」と手を打ってしまいました。
確かに豊明の「桶狭間古戦場伝説地」は沓掛城から大高城に向かう途中にありますし、佐々・千秋の軍が襲い掛かったとされる高根山は大高への進軍経路前方にあります(図3参照)。更にこの説では信長は西から東に向かって義元本陣を急襲していることになり、『信長公記』の「東に向かいてかかり給う」の記述にも合致します。*2
次にガイドの方は「今川本隊は織田軍撃破の報告を受けて謡をうたい、酒を出して勝利を祝っていた。(ここで何で酒まで出て来るのかねえ?)その最中にゲリラ豪雨が起こり、義元本陣が雨をしのごうとして右往左往している間に、織田信長の軍勢が雨の中を中島砦から太子ヶ根を通って一直線に義元本陣に攻めかかってきた。」と説明されました。

図3:伝説地を支持する方々が考える義元と信長の進軍経路(桶狭間古戦場伝説地HPより)

ここで私は以前から気になっていた質問をぶつけてみました。
「信長公記には今川義元は桶狭間に陣を張ったと書いてありますが、皆さんはどこを桶狭間山だと考えているのですか?」
前回説明しましたが、豊明の桶狭間古戦場伝説地は江戸時代中期「今川義元は桶狭間の谷で休憩している所を奇襲された」と考えられていた時にできた史跡です。なので元来古戦場伝説地周辺には「桶狭間」は存在していません。さてどう説明するのでしょうか?
するとガイドさんは南東の丘陵を指さして「あのホシザキ本社のある辺りから高徳院までの一帯が桶狭間山です。高徳院の境内には『今川義元本陣跡』の石碑も建っています。」とあっさり答えられました。

図4:豊明の方々が考える桶狭間山(グーグルアースより。挿入画像は2025/11/29撮影)

これにはぐうの音も出ません。確かに古戦場伝説地の南東一帯には標高60m(グーグルアースで測量)程の丘陵が広がっているのですから。
更にガイドの方は衝撃的な一撃を放ってきました。
「実は最近ここで桶狭間の戦いが起こったと記されている新史料が発見されたのですよ!」

*1:豊明市は平成22年(2010年)に産業振興課と生涯学習課が主体となって「豊明市にある史跡、名勝、特に桶狭間合戦に関連する出来事を史実にもとづき、国内外の多くの人々に発信することを目的」(とよあけ桶狭間ガイドボランティアHPより)として「豊明桶狭間ガイドの会」を発足しました。現在23名の方が「ガイドの会」会員としてボランティアで伝説地での待ち受けガイドを始めとした様々な広報活動を行っておられます。

*2:実は緑区の桶狭間古戦場保存会の方々が説明する織田信長の進軍経路では、信長は北から南に向けて桶狭間山の義元本陣を襲っている事になっていて『信長公記』の記述と矛盾しているのです。詳しくは4/20投稿「ブラタモリの「桶狭間」を観て(後編)を御一読ください。