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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその2-何故天文21年と偽ったのか?①

ここまで「桶狭間の戦い」を考察するには『信長公記』は絶対に欠かせないことを述べてきましたが、ここからはその『信長公記』の桶狭間の記述部分を詳細に考察して行きたいと思います。

図1改訂史籍収攬*1収録の信長公記町田本

信長公記』での桶狭間の戦いは「天文てんもん21年(1552年)壬子みずのえね5月17日今川義元沓掛くつかけへ参陣」と言う記述から始まります。
ところが早速この記述から大問題が発生してしまいます。すなわち「天文21年壬子」は大間違いなのです。
桶狭間の戦い」が実際に起こったのは永禄3年(1560年)です。みなさん高校でそう習いましたよね。
じゃあなぜ天文21年が間違いで永禄3年が正しいと確定できるのかと言うと、「動かぬ証拠」があるからなんです。
それがこれ

図2義元佩刀はいとう左文字(建勲神社所蔵)

図2は桶狭間の戦いの時に義元が差していたとされる刀で通称「義元左文字*2と呼ばれるものです。
この刀には「織田尾張守信長永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と刻まれていて「織田尾張守信長が永禄3年5月19日に今川義元を討ち取った時に彼が所持していた刀」と読めます。
これが現在まで残っているのではいかに信頼度の高い良質な史料である『信長公記』の記述と言えども、文字通り太刀打ちできないですよね。
歴史の専門家の方々はこの間違いを「単なる誤記」で済ましておられますが、事はそんな簡単に片づけられるものでは無いのです。

図3信長公記桶狭間の章での和暦記述部分抜粋

図3のように桶狭間の章において3箇所「天文21年壬子」と書かれています。
3箇所も、その上干支まで(天文21年の干支は壬子で合っています。)「誤記」するなんてあり得ません。
明らかに執筆者は桶狭間の戦いを天文21年(1552年)と誤認していたか、或いは読者を「桶狭間の戦い」は天文21年に起こったと誤認させたかったのかのどちらかです。
では誰が間違った和暦を書いたのでしょうか?この答えは簡単です。
「陽明本」「町田本」「南葵本」の3本とも「天文21年壬子」と書かれています。*33人とも同じように写し間違えるなんてあり得ないので、太田牛一が書いた直筆本に「天文21年」と書いてあったとしか考えられません。
しかしちょっと待って下さい。書写した人はなんで間違った記述をそのまま写したのでしょうか?しかも3人も。普通書写時に明らかに間違った記述を見つけたら修正まではしなくても少なくとも注釈ぐらい入れるのでは無いでしょうか?
可能性としては上記3本の書写時にはまだ義元左文字に「永禄三年」の銘が刻まれていることが知られていなかった。とするしかないのですが、「天下取りの刀」と言われた有名な刀の銘刻が知られていなかった?う~んに落ちないです。
太田牛一桶狭間が「永禄3年」に行われたのを知らないってことは絶対にあり得ません。仮に年老いて記憶力が衰えていたとしても、彼は過去にしたためた大量のメモを見ながら執筆したのですから。*4

図4信長公記池田本(牛一自筆本)巻13奥書(田中久夫氏著「信長公記成立考」より抜粋)

*1:岡崎藩儒者近藤瓶城へいじょうが編纂した江戸時代までの日本の史書等の叢書(wikipediaより)1900~1903年(明治33~36年)刊行の改訂版第5に『我自刊我書』収録町田本の活字版が入っている。

*2:南北朝時代に博多で活躍した名工左文字派によって作られた打刀。三好政長から武田信虎(信玄の父)に贈られ、信虎の娘が義元に嫁いだ際の引き出物として義元に贈られたとされる。信長死後は秀吉→家康へと受け継がれ、「天下取りの刀」と呼ばれた。(wikipediaより抜粋)『信長公記』にもこの刀は登場しており、「義元不断さされたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ」と記述されてます。

*3:天理本では図4の③の部分のみ「天文21年壬子五月十九日」と記入されていて、①②の部分は日付のみになっています。何故1ヶ所のみ残したのでしょうか?恐らく残したのではなく、削除し忘れたのでしょう。とにかく天理本のみ削除があると言うことはこの本が最も新しい写本である証拠になると思います。

*4:太田牛一自筆本である『信長公記池田本』(15帖のみ。首巻は無し)巻十三に牛一自筆の奥書があり、「毎日日記のように書き溜めたものが自然と集まり」(図4参照)と記し、過去の日記やメモを細目こまめに取っていて、それを基に書かれたことが分かります。