ようこそケビンの部屋へ

自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

桶狭間の戦い

【補論】その4ー簗田出羽守とは何者?

ランキング参加中日本の歴史今回は『信長公記』から離れて「簗田やなだ出羽守」について論じてみたいと思います。 簗田出羽守(通称政綱)については静岡大学名誉教授の小和田哲男先生*1が事あるごとに言及されておられます。 小和田先生は「桶狭間の論功行賞では、…

『信長公記』を読み解くその11-何故今川義元は桶狭間山に陣取ったのか?①

ランキング参加中日本の歴史『信長公記』は信長が善照寺砦に入った記述の後、突然場面は変わり「御敵今川義元ハ四萬五千引率しおけはさま山に人馬の休息在之」と書かれています。(図1の①) 図1:『信長公記首巻』桶狭間山記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)そして…

『信長公記』を読み解くその10ー岡部元信は何をしていた?

ランキング参加中日本の歴史信長は熱田から丹下砦を経由して善照寺砦に入り、砦の守備兵達を部隊に組み込んだ後、中島砦に入りました。 図1:鳴海城と丹下・善照寺・中島砦しかしここで大きな疑問が沸き起こります。鳴海城の岡部元信は目の前を信長本隊が通り過ぎて…

『信長公記』を読み解くその9ー桶狭間に清州の重臣達は参加したのか?

ランキング参加中日本の歴史熱田神宮を辰の刻(午前7時~9時)に立った信長主従5騎+足軽200人は先ず鳴海城の付城つけじろである丹下砦に行き、そこから善照寺砦に入ります。信長は何のために丹下・善照寺砦に立ち寄ったのでしょうか? 『信長公記』丹下・善照寺砦…

『信長公記』を読み解くその8ー信長はどのような秘策を持って出陣したのか?

ランキング参加中日本の歴史信長が大軍で攻め寄せてきた義元に対し、乾坤一擲けんこんいってきの戦いを挑むため桶狭間に向けて出陣する場面は、多くの歴史ドラマで描かれる有名なシーンです。 殆どのドラマでは信長が義元を討つ秘策を胸に秘して出陣するのです…

【補論】その3ー義元は満潮時に砦を攻撃していない。

ランキング参加中日本の歴史前々回私は『信長公記』では「無助様に十九日朝鹽しおの満干を勘かへ取手を可拂はらう之旨必定」と書いてあり、「(今川義元は)十八日の夜に大高城に入り、兵糧を入れ、助けが無い様に十九日朝に潮の満ち引きを考え、砦を攻撃してくること…

『信長公記』を読み解くその7ー信長は清州城でなぜ評定を行わなかったのか?

ランキング参加中日本の歴史前回までで「今川義元は永禄3年5月18日の夜には大高城にいた。」との説を論じてきました。 この説はまだ定説とはなってはいないですが、現在多くの歴史家達に支持されつつありますので、今後この説を前提に考察を進めていきたいと思いま…

『信長公記』を読み解くその6ー義元は18日何をしていた?②

ランキング参加中日本の歴史前々回「今川義元は5月18日沓掛で水野氏に対し懐柔工作を行っていた。」とする私説を披露しましたが、現在の私は別の考えを持っています。 図1:左:三河物語桶狭間記述書き下し文(雑史集続国民文庫) 右:原本表紙(次世代デジタルライブ…

【補論】その2ー今川義元出陣の目的は何だったのか?

ランキング参加中日本の歴史ここで話を『信長公記』から離れ、今川義元は何を目的で南尾張に出陣したのかを論じたいと思います。 小瀬甫庵が『甫庵信長記』で義元出兵の目的を「爰ここニ今川義元ハ天下ヘ切テ上リ國家ノ邪路じゃじヲ正ントテ」と書いたため(図1)、…

『信長公記』を読み解くその5ー義元は18日何をしていた?①

ランキング参加中日本の歴史『信長公記首巻』は天文21年(実際は永禄3年)5月17日*1今川義元沓掛に着陣の後、 図1:『信長公記首巻』31ページ(改定史籍収攬収録町田本)「十八日夜に入大高の城へ兵糧入無助様に十九日朝潮の満干を勘かへ取出を可払之旨必定と相聞…

『信長公記』を読み解くその4ー何故天文21年と偽ったのか?③

ランキング参加中日本の歴史何を目的に太田牛一は弘治2年(1556年)と弘治4年(1558年)の記事の間に桶狭間の戦いを天文21年(1552年)のこととして入れたのでしょうか? その答えとして最近「信長の軍勢を少なく見せたかったから」との説を目にします。 つまり「永禄3…

『信長公記』を読み解くその3-何故天文21年と偽ったのか?②

ランキング参加中日本の歴史前回までで太田牛一がわざと「天文21年(1552年)壬子」と記したことを述べました。 では桶狭間以外での記述はどうなっているのでしょうか? 『信長公記』の巻一から巻十五は1年毎に纏まとめられたものなので、巻頭に和暦が書かれている…

『信長公記』を読み解くその2-何故天文21年と偽ったのか?①

ランキング参加中日本の歴史ここまで「桶狭間の戦い」を考察するには『信長公記』は絶対に欠かせないことを述べてきましたが、ここからはその『信長公記』の桶狭間の記述部分を詳細に考察して行きたいと思います。 図1改訂史籍収攬*1収録の信長公記町田本『信長…

【補論】その1『信長公記天理本』について

ランキング参加中日本の歴史藤本正行氏が『信長公記』を基に「正面攻撃説」を提唱した昭和57年(1982年)以降、賛同や反論、独自の新しい説の提唱等、桶狭間に関する議論が活発に交わされるようになりました。 しかしここ数年は新しい史料が出て来ないこともあって、…

『信長公記』を読み解くその1ーなぜ信長公記は今まで注目されなかったのか?

ランキング参加中日本の歴史藤本正行氏は『信長公記』には「信長は迂回奇襲などせず、今川軍に対し正面から攻撃をしたと書いてある。」として『正面攻撃説』を提唱しました。 「桶狭間の戦い」から422年目にして初めて「迂回奇襲」以外の説が提唱されたのです。 藤本…

桶狭間検証その6-桶狭間を語る上で絶対に欠かすことができない史料

ランキング参加中日本の歴史江戸期~昭和30年代まで長らく「桶狭間の戦い」は「迂回奇襲説」が唯一無二の定説とされてきました。 その迂回奇襲の描写も年々ひどくなり、武功夜話*1に至っては「木下藤吉郎と蜂須賀小六が農民に変装して義元に酒を献上して酒宴を開か…

桶狭間検証その5-「桶狭間の戦い」での信長勝因論の推移その2

ランキング参加中日本の歴史明治になると帝国大学(現東京大学)を中心に多くの大学が設立され、その中で「歴史学」も西欧からの近代歴史学の流入により活発に研究されるようになりました。 しかし大学での研究は「皇国史観」*1による天皇中心の歴史研究が主でした。 …

桶狭間検証その4ー「桶狭間の戦い」での信長勝因論の推移その1

長らく横道に逸れて尾張統一の過程を論じてきましたが、桶狭間に話を戻しましょう。 今回は、「信長はなぜ桶狭間で今川義元に勝てたのか?」の疑問に対して昔の人々はどう考えていたのか?その推移を追ってみたいと思います。 現在では、「なぜ信長が勝てたのか?」…

信長はどのようにして尾張を統一したのか?その5-そして桶狭間へ

ランキング参加中日本の歴史 弟勘十郎を自害に追い込み、父信秀の重臣達全員を配下に収めた信長は、その勢いを駆って尾張守護の斯波義銀よしかねを三河守護吉良義昭と謀反を画策した罪で追放しました。更に岩倉を攻め、上四郡守護代織田信賢も追放し、ここに尾張…

信長はどのようにして尾張を統一したのか?その4-父の代からの重臣達を屈服させた信長

ランキング参加中日本の歴史唯一の味方であった義父斉藤道三を失い、絶体絶命の状態に陥った信長。 しかし、信長はここから僅か3年で尾張を統一してしまいました。 越前攻めの時と言い、本願寺攻めの時と言い、信長はその生涯において、幾多の絶対絶命のピンチに陥…

信長はどのようにして尾張を統一したのか?その3ー信長の強力な味方

ランキング参加中日本の歴史 前回私は信長に「自分一人の力で尾張を統一してやるという強い意志を感じた。」と書きました。 信長が一見無謀に見える、このような意思を持てたのには、理由があります。 それは尾張の外に強力な味方がいたからです。そう美濃の蝮ま…

信長はどのようにして尾張を統一したのか?その2ー信長は父と仲が良かった?

ランキング参加中日本の歴史 前回私は織田信長は嫡男「だった」と過去形にしました。 こう書くと皆さんは、信秀死後重臣たちが「うつけ」の信長に愛想をつかし、弟の勘十郎*1を嫡男に担ぎ上げようとしたことを言ってるんだと思われるでしょうが、少し違います。 私…

信長はどのようにして尾張を統一したのか?その1ー信長は本当に嫡男?

ランキング参加中日本の歴史 ここで少し話を桶狭間から離れ、信長の尾張統一の経緯について検証して行きたいと思います。 前回私は信長は「尾張全土の直接支配」と記しましたが、これは「信長の尾張支配の方法は、他の大名と違う。」との意味を込めて、こう書きました…

桶狭間検証その3ー信長と義元実際の兵力差は?

ランキング参加中日本の歴史 前回までで、尾張は当時日本有数の大都市で、信長はこの尾張を統一した段階で戦国有数の大大名になったと論じてきました。 戦国時代の兵力は一般に一万石で250人が目安とされています。(豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に各大名に課した兵数…

桶狭間検証その2-信長は尾張一国の小大名?②

ランキング参加中日本の歴史 戦国時代最も豊かだった国はどこだと思いますか? ネットで調べると慶長3年(1598年)に行われた検地史料がありましたので表にしてみました。 図1-慶長3年国別石高表 上図を見ると東北全体が入る陸奥は例外として、石高1位は近江、…

桶狭間検証その1-信長は尾張一国の小大名?①

ランキング参加中日本の歴史 織田信長と今川義元を比較する時よく「義元は駿遠三3国の大大名。それに対し信長は尾張1国だけの弱小大名。軍事力では義元の足元にも及ばない。」と言われます。 図1-尾張・三河・遠江・駿河 図1は尾張・三河・遠江・駿河四ヵ国の大雑…

永禄3年5月19日

ランキング参加中日本の歴史 永禄3年5月19日。 みなさん何が起こった日か答えられますか? 西暦では1560年6月21日です。場所は現在の名古屋市で起こりました。 ここまで書けば、答えられる方は多いのではないでしょうか? そうです「桶狭間の戦い」が…