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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

【補論】その1『信長公記天理本』について

藤本正行氏が『信長公記』を基に「正面攻撃説」を提唱した昭和57年(1982年)以降、賛同や反論、独自の新しい説の提唱等、桶狭間に関する議論が活発に交わされるようになりました。
しかしここ数年は新しい史料が出て来ないこともあって、議論も停滞気味になってきていました。
ところが「正面攻撃説」提唱から30年以上たった頃『信長公記天理本』なるものが公開されました。*1
この本の公開を機に、今まで停滞していた議論が再燃し、多くの歴史家達がこの本を基にした新しい「桶狭間論」を展開し始めました。
この新しい「桶狭間論」は非常に有益なものも多く、私も大変参考にさせて頂きました。*2
しかし、参考にさせて頂きながら非常に恐縮なんですが、一言で言って『信長公記天理本』は非常に胡散臭うさんくさいんです!
前回既述したように、首巻が載っている『信長公記』は長らく「町田本」「陽明本」「南葵本」の3系統とされて来ました。
そして首巻部分の記述は3系統とも大きな差異は無いと説明されていました。
「町田本」は国立国会図書館デジタルコレクションで『我自刊我書』に収められている物が公開されてますし、「陽明本」は角川文庫から原文を活字化したものが注釈付きで出版されてます。

信長公記ー左:町田本(国会図書館所蔵)右:陽明本(角川文庫)

この2つを読み比べてみましたが、確かに書かれている内容に相違点は見い出せませんでした。*3
それに対し「天理本」の記述は全く違っていて、とても同じ原本からの写本には見えません。どちらかは明らかに原本に対し大きな修正を多くの箇所で行っています。
ではどちらが大きく修正されたものでしょうか?普通に考えれば「天理本」の方ですよね。
しかし、「天理本」を支持する方々はこちらの方が未発見の太田牛一直筆本に近いと断言しています。
その心は?「天理本」は「町田本」「陽明本」「南葵本」より書写時期が古い為とのことなんですが、じゃあ何故古いと言えるのかがよく分かりません。
一部の方は「天理本は桶狭間を[オケバサマ]と読んでいる。この読みは[オケハザマ]より古い言い方であるので『天理本』が最も古い。」と言ってますが、一箇所で古い読み方が使われているからその本全体が古いとは言えません。
たまたま写筆者が「桶狭間」を昔は「オケバサマ」と読んでいたとの史料を見つけたのでそう書いただけの可能性の方が高いです。
私が「天理本」を胡散臭いと言っているのは、他の3本より詳しすぎるからなんです。そしてその詳しく記されている箇所は大体において『甫庵信長記』の記述と似ているのです。
例えば、桶狭間出陣前日の清州城での評定の場面では
「町田本」は「軍の行ハ努努無之(意訳:戦の話は全く無く)」と書いて軍議は無かったとしてあるのに対し
「天理本」は「軍之行御談合於(意訳:戦の話し合いにおいて)」と全く逆のことが書かれていて、その後に信長が合戦を主張したところ重臣達が反対して籠城を主張した(まあ義元が桶狭間に進軍してきただけで籠城するなんてこと自体あり得ない話なのですがね。)ので*4、信長は過去に籠城に固執して討死にしてしまった安見右近と言う者の名前を出して重臣達を説得したとの話が長々と述べられています。
一般的に書写する際はその記述が間違っていると確信できない限り、原本の記述を削ることはあまりしない筈です。対して新しく発見された事柄等を盛り込むことはあり得る話です。
ですから詳しく述べられている「天理本」はもっとも新しい写本であると私は考えます。

*1:平成26年(2014年)『愛知県史資料編14』に「陽明本」と並んで天理大学所蔵の『信長公記』として掲載されたことで有名になりました。ただ橋場日月あきら氏が著書『新説桶狭間合戦』 (https://amzn.to/3xPdt7C)にて天理本信長記を引用しており、歴史学者や作家の間ではそれ以前から存在を認識されていたようです。

*2:代表的な天理本に関する解説書のリンクを貼っておきます。かぎや散人氏訳『現代語訳信長公記天理本』現代語訳 信長公記天理本首巻 | 太田牛一, かぎや散人 |本 | 通販 | Amazon、竹内元一氏著『桶狭間の戦い前夜の真実』Amazon.co.jp: 桶狭間の戦い 前夜の真実 eBook : 竹内元一: 本両書とも桶狭間を新しい視点で詳しく解説していて非常に興味深い内容になってます。

*3:陽明本角川文庫版Amazon.co.jp: 信長公記 (角川文庫 名著コレクション 38) : 奥野 高広, 岩沢 愿彦: 本と全訳町田本のキンドルAmazon.co.jp: 全訳信長公記 電子書籍: 太田 牛一, 山村 素門: Kindleストアのリンクを貼っておきます(全訳町田本のkindle版はUnlimited会員の方は無料で読めます)。なお町田本の原文を読みたい方は国会図書館デジタルライブラリーhttps://lab.ndl.go.jp/dl/book/781192?で読めます。

*4:『甫庵信長記』も清州城で軍議が行われ、林佐渡が籠城を進言したとの記述があります。