ランキング参加中日本の歴史藤本正行氏が1982年に「正面攻撃説」を提唱されたのを契機にして多くの歴史学者の先生方が多種多様な説を発表され始め、近年「桶狭間の戦い」に関する活発な議論が展開され続けています。 またインターネットの発展により私のような素人…
ランキング参加中日本の歴史前回木下藤吉郎は寧々と結婚した事により名門浅野家の縁者になった為信長の家臣になる事ができたとの説を提唱いたしました。 今回はこの説を提唱した根拠をもう少し深堀りしてみたいと思います。 藤吉郎と寧々の結婚は史実であるの…
ランキング参加中日本の歴史今回は「桶狭間の戦い」の本論から脱線して、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)について考察してみたいと思います。 藤吉郎が出生から織田家の侍大将になるまでにおいては多くの逸話が残っており、その中には今現在も史実として語られている物…
ランキング参加中日本の歴史長らく論じてきました『信長公記首巻』における「桶狭間の戦い」の記述に関する考察も今回で最後になります。 桶狭間山に本陣を構えていた今川義元は織田信長勢の突然の来襲に虚を突かれ、あっさり毛利新介*1に頸を取られてしまいます…
ランキング参加中日本の歴史前回私は織田軍と今川軍の行軍時系列表を作成し、今川義元が大高城を出た時織田信長はまだ丹下砦にいた為、信長来襲を予期できていなかった。との説を提唱しました。 今回は信長が丹下砦を出て桶狭間山の麓に至るまで義元は信長の動き…
ランキング参加中日本の歴史前回私は今川義元は信長が桶狭間に来ていることを知らなかった。との説を提唱いたしました。 現在では織田信長は迂回奇襲などせず桶狭間山の義元に向かって正面から突撃したとする「正面攻撃説」が通説とされてますが、この説だと大軍…
ランキング参加中日本の歴史ゲリラ豪雨が上がり「空晴はれる」と信長は大きな声で「すハか々れ」と突撃を指示します。 図1:『信長公記首巻』桶狭間山信長突撃部分(改訂史籍収攬収録町田本)対して今川軍は「水をまくるか如く後ろへくはつと崩れたり(中略)今川義元…
ランキング参加中日本の歴史織田信長はどうやって「山際迄」行ったのか?に関して『信長公記』は一言も書いていません。なので今回は私の考えを述べてみたいと思います。 図1:『信長公記首巻』中島砦記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)信長は中島砦で「あの武者は…
ランキング参加中日本の歴史今回はちょっと本題から外れて、今川義元は鳴海城の付け城善照寺砦、丹下砦、中島砦に対しどのような軍事行動を取ろうとしたのかを考察してみたいと思います。 従来の「正面攻撃説」では、19日早朝に沓掛を出陣し桶狭間山で休憩中に織田…
ランキング参加中日本の歴史いよいよ「桶狭間の戦い」の考察も佳境に入ってきました。本日より『信長公記首巻』最大の謎について考えていきたいと思います。 図1:『信長公記首巻』桶狭間山攻撃部分(改訂史籍収攬収録町田本)信長は頸を持参して合流してきた前田…
ランキング参加中日本の歴史信長が中島砦を出ようとすると前田叉左衛門(後の前田利家)以下9名が各々頸を持ってやって来ました。(図1の①) 図1:『信長公記』首巻・巻二前田叉左等記述部分(改訂史籍収攬町田本)彼らは「鷲津丸根砦で佐久間大學達と一緒に戦ってそ…
ランキング参加中日本の歴史信長が中島砦から出撃しようとすると家臣達は必死になって止めようとします。そこで彼は家臣達に向かって「あの武者たちは昨日の夕方から兵糧を夜通し大高城に入れ、(今朝は)鷲津・丸根砦を苦労して攻め落とし、疲弊し切った武者だ」と…
ランキング参加中日本の歴史信長が善照寺砦に入ると、それを見た佐々隼人正はやとのしょう*1と千秋せんしゅう四郎*2が「義元へ向むかいて足輕がるに罷まかり出」ます(図1の①)が、この記述に対し、多くの歴史家達がいろんな説を提唱されています。 図1:『信長公記…
ランキング参加中日本の歴史『信長公記』には「今度家康は朱武者*1にて先懸がけをさせられ大高へ兵糧入鷲津丸根にて手を碎くだき御辛勞しんろうなされたるに依よりて人馬の休息大高に居陣也」と書いてあります。(図1) 図1:『信長公記首巻』家康記述部分(改訂史…
ランキング参加中日本の歴史『信長公記』の桶狭間山の文章にはまだおかしな箇所があります。 図1:『信長公記首巻』文章断絶部分図1をご覧ください。「御人籔ずう立てられ勢衆揃させられ様體ようたい御覧し」となっていて(図1の①)、その後改行され「御敵今川義元、、…
ランキング参加中日本の歴史今川義元が桶狭間山に陣取るまでを時系列で追って見ましょう。 図1再掲:『信長公記首巻』桶狭間山記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)『信長公記』には義元は午の刻(11時~13時)鷲津・丸根砦を落として上機嫌になり、謡を三番うたった…
ランキング参加中日本の歴史『信長公記』は信長が善照寺砦に入った記述の後、突然場面は変わり「御敵今川義元ハ四萬五千引率しおけはさま山に人馬の休息在之」と書かれています*1。(図1の①) 図1:『信長公記首巻』桶狭間山記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)そし…
ランキング参加中日本の歴史今回は『信長公記』から離れて「簗田やなだ出羽守」について論じてみたいと思います。 簗田出羽守(通称政綱)については静岡大学名誉教授の小和田哲男先生*1が事あるごとに言及されておられます。 小和田先生は「桶狭間の論功行賞では、…
ランキング参加中日本の歴史信長は熱田から丹下砦を経由して善照寺砦に入り、砦の守備兵達を部隊に組み込んだ後、中島砦に入りました。 図1:鳴海城と丹下・善照寺・中島砦しかしここで大きな疑問が沸き起こります。鳴海城の岡部元信は目の前を信長本隊が通り過ぎて…
ランキング参加中日本の歴史熱田神宮を辰の刻(午前7時~9時)に立った信長主従5騎+足軽200人は先ず鳴海城の付城つけじろである丹下砦に行き、そこから善照寺砦に入ります。信長は何のために丹下・善照寺砦に立ち寄ったのでしょうか? 『信長公記』丹下・善照寺砦…
ランキング参加中日本の歴史信長が大軍で攻め寄せてきた義元に対し、乾坤一擲けんこんいってきの戦いを挑むため桶狭間に向けて出陣する場面は、多くの歴史ドラマで描かれる有名なシーンです。 殆どのドラマでは信長が義元を討つ秘策を胸に秘して出陣するのです…
ランキング参加中日本の歴史前々回私は『信長公記』では「無助様に十九日朝鹽しおの満干を勘かへ取手を可拂はらう之旨必定」と書いてあり、「(今川義元は)十八日の夜に大高城に入り、兵糧を入れ、助けが無い様に十九日朝に潮の満ち引きを考え、砦を攻撃してくること…
ランキング参加中日本の歴史前回までで「今川義元は永禄3年5月18日の夜には大高城にいた。」との説を論じてきました。 この説はまだ定説とはなってはいないですが、現在多くの歴史家達に支持されつつありますので、今後この説を前提に考察を進めていきたいと思いま…
ランキング参加中日本の歴史前々回「今川義元は5月18日沓掛で水野氏に対し懐柔工作を行っていた。」とする私説を披露しましたが、現在の私は別の考えを持っています。 図1:左:三河物語桶狭間記述書き下し文(雑史集続国民文庫) 右:原本表紙(次世代デジタルライブ…
ランキング参加中日本の歴史ここで話を『信長公記』から離れ、今川義元は何を目的で南尾張に出陣したのかを論じたいと思います。 小瀬甫庵が『甫庵信長記』で義元出兵の目的を「爰ここニ今川義元ハ天下ヘ切テ上リ國家ノ邪路じゃじヲ正ントテ」と書いたため(図1)、…
ランキング参加中日本の歴史『信長公記首巻』は天文21年(実際は永禄3年)5月17日*1今川義元沓掛に着陣の後、 図1:『信長公記首巻』31ページ(改定史籍収攬収録町田本)「十八日夜に入大高の城へ兵糧入無助様に十九日朝潮の満干を勘かへ取出を可払之旨必定と相聞…
ランキング参加中日本の歴史何を目的に太田牛一は弘治2年(1556年)と弘治4年(1558年)の記事の間に桶狭間の戦いを天文21年(1552年)のこととして入れたのでしょうか? その答えとして最近「信長の軍勢を少なく見せたかったから」との説を目にします。 つまり「永禄3…
ランキング参加中日本の歴史前回までで太田牛一がわざと「天文21年(1552年)壬子」と記したことを述べました。 では桶狭間以外での記述はどうなっているのでしょうか? 『信長公記』の巻一から巻十五は1年毎に纏まとめられたものなので、巻頭に和暦が書かれている…
ランキング参加中日本の歴史ここまで「桶狭間の戦い」を考察するには『信長公記』は絶対に欠かせないことを述べてきましたが、ここからはその『信長公記』の桶狭間の記述部分を詳細に考察して行きたいと思います。 図1改訂史籍収攬*1収録の信長公記町田本『信長…
ランキング参加中日本の歴史藤本正行氏が『信長公記』を基に「正面攻撃説」を提唱した昭和57年(1982年)以降、賛同や反論、独自の新しい説の提唱等、桶狭間に関する議論が活発に交わされるようになりました。 しかしここ数年は新しい史料が出て来ないこともあって、…