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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその1ーなぜ信長公記は今まで注目されなかったのか?

藤本正行氏は『信長公記』には「信長は迂回奇襲などせず、今川軍に対し正面から攻撃をしたと書いてある。」として『正面攻撃説』を提唱しました。
桶狭間の戦い」から422年目にして初めて「迂回奇襲」以外の説が提唱されたのです。
藤本氏がこの説を提唱したことを契機にして歴史学者や在野の歴史研究家の間で『信長公記』が読み直され、現在では活発な議論が行われています。
では、太田牛一が書いた『信長公記』とはどんな書物なのでしょうか?そして何故今まで注目されなかったのでしょうか?

信長公記首巻原本(陽明文庫所蔵)

信長公記』は信長が足利義昭を伴って入京した1568年(永禄11年)から本能寺の変で亡くなる1582年(天正10年)までの15年間の出来事を1年毎に書きつづった15巻(通称15ちょう)と、父信秀の後半生から信長が入京するまでの出来事を1巻にまとめた「首巻」の計16巻から成り立っていて、「桶狭間の戦い」はこの「首巻」の部分に描かれています。*1
信長公記』は一度も出版されず、牛一自身が書いたとされる直筆本が2冊と1帖が発見されてますが*2、どれも「首巻」は入っていません。
また『信長公記』の写本は現在20種類以上発見されているそうですが、「首巻」が入っているのは町田久成旧蔵の「町田本」*3と、近衛家所蔵の本を集めた「陽明文庫」に収められている「陽明本」*4東京大学図書館所蔵の「旧南葵なんき文庫本」*5の3種類のみです。*6
このように『信長公記』「首巻」は出版されず、写本も極めて残っている点数が少ない為、江戸期は一部の知識人の間でしか存在を知られていませんでした。*7
また明治以降は以前に述べたように学者たちは軍部に睨まれるのを恐れ、合戦の研究は滞っていました。
以上の理由から私は『信長公記』その中でも特に「首巻」は藤本正行氏の登場まで歴史家達の間でも注目されなかったと考えています。

*1:首巻には桶狭間以外にも、斎藤道三との会見の話や、若い頃「うつけ者」と呼ばれていた話、父の位牌に抹香まっこうを投げつけた話等が記されていますが、これらの話は主に江戸時代に出版された『甫庵信長記』よって有名になりました。

*2:名古屋建勲たけいさお神社所蔵の「建勲神社」本と岡山大学付属図書館池田家文庫所蔵の「池田本」(第12巻のみ写本)、尊経閣文庫蔵『永禄十一年記』(巻一相当部分のみ抜粋した物)の3点

*3:原本は現在行方不明だが、自称古書保存屋の甫喜山ほきやま景雄が明治14年(1881年)に発刊した『我自刊我がじかんが書』にコピーが丸ごと掲載されているため、これをもって『信長公記町田本』として通用している。

*4:昭和44年(1969年)に角川文庫から活字体に翻訳したものが出版されている。

*5:明治35年(1902年)に紀州徳川家当主・徳川頼倫よりみち東京府麻布区飯倉の自邸内に開設した私立図書館大正13年(1924年)一部を除き全蔵書が東京図書館に寄贈された。wikipediaより抜粋

*6:これ以外に天理大学図書館所蔵の「天理本」があるとされていますが、これには私は大きな疑義を持っている為ここでは入れてません。その理由は次回説明します。

*7:甫庵はこの一部の知識人を意識して太田牛一の名を著書に入れたと私は考えています。因みにその知識人の一人である大久保忠教(通称彦左衛門)は自著『三河物語』の中で『甫庵信長記』を「偽り多し」と断じています。