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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

桶狭間検証その5-「桶狭間の戦い」での信長勝因論の推移その2

明治になると帝国大学(現東京大学)を中心に多くの大学が設立され、その中で「歴史学」も西欧からの近代歴史学流入により活発に研究されるようになりました。
しかし大学での研究は「皇国史観*1による天皇中心の歴史研究が主でした。
その為、天皇親政であった古代~奈良時代や、後醍醐天皇の「建武の親政」の研究は活発に行われたものの、歴史学者達は戦国時代の合戦研究には非常に消極的でした。
しかし、戦国合戦の研究が無されなかったわけではありません。いやむしろ大いに研究されていました。ただその場は大学等の学問機関では無く、軍事機関においてでした。
中でも日本帝国陸軍参謀本部*2は積極的に戦国時代の合戦の研究を行い、『日本戦史』シリーズとして公開し、刊行されました。
もちろん「桶狭間の戦い」も公開されたのですが、史料とされたのは、、、残念ながら『甫庵信長記』を基に書かれた『桶狭間合戦記』*3でした。
まあ帝国陸軍は軍事機関であるので、戦術研究の一環として過去の合戦を検証したのであって、史料の真実性が検証されなかったのは致し方ない事かもしれません。
しかし、明治~終戦にかけて軍部の力が絶大になっていったため誰も軍部の説に異を唱えられなくなりました。その為「迂回奇襲説」が定説として確立してしまったのです。

『日本戦史桶狭間戦役』(国立国会図書館デジタルコレクションより複写)

そして昭和20年の終戦を迎え、帝国陸海軍が解体され、やっと歴史学者達による戦国の合戦研究が自由に行われるようになったのですが、、、そうなんです。ここでもまたしても障壁が発生しました。
それは「教科書」と「歴史小説」でした。
戦後日本史の教科書は天皇を神格化した神話時代の記述を削除したり、明治以降の軍国主義的記述の修正は行われましたが、それ以外の箇所の記述は長らく修正されませんでした。
その為、殆どの日本史の教科書は桶狭間の項で『桶狭間戦役』に掲載されていた地図がそのまま使われていました。(私が学んだ日本史の教科書もこの図が載っていました。)
文部省が検定する教科書の記述が間違ってるなんて一般の人はこれっぽちも考えないですよね。

教科書に載っていた桶狭間の図(国会図書館デジタルコレクションより複写)

もう一つが「歴史小説」の存在でした。特に戦国大名を主人公にした小説は戦前から人気がありましたが、戦後になると太平洋戦争の英雄達を描くのが不可能になったこともあって新聞や週刊誌は我を争って戦国時代の歴史小説を連載しだしたのです。
中でも織田信長豊臣秀吉徳川家康の戦国の三英傑はよく描かれました。この3人が出てくる小説には必ずと言って良いほど「桶狭間の戦い」の描写があるのですが、これも全て帝国陸軍の『日本戦史桶狭間戦役』が基にされた迂回奇襲ばかりでした。
更にこの歴史小説を基に多くの映画やTVドラマが作成されたため、一般の人々の隅々にまで「桶狭間=迂回奇襲」が既成事実として浸透してしまったのです。

*1:万世一系天皇を中心とする国体の発展・展開ととらえる歴史観デジタル大辞泉より

*2:日本陸軍に存在した軍令機関。政府省庁である陸軍省とは独立した形で大元帥である天皇に直隷して陸軍を統帥せしめ、作戦計画並びに指揮及び遂行する等を職務とした。Wikipediaより抜粋

*3:作者尾張藩士山澄英竜1670~1700年頃成立。