江戸期~昭和30年代まで長らく「桶狭間の戦い」は「迂回奇襲説」が唯一無二の定説とされてきました。
その迂回奇襲の描写も年々ひどくなり、武功夜話*1では「木下藤吉郎と蜂須賀小六が農民に変装して義元に酒を献上して酒宴を開かせた。」とか言う時代劇の脚本のような話まで出てきました。
そんな中、昭和57年(1982年)画期的な説が提唱され、歴史学者達を驚愕させました。
説を唱えたのは歴史学者の藤本正行氏で、彼はそれまで定説であった「迂回奇襲説」を初めて公の場で否定しました。*2
ではどのような理由で否定したのでしょうか?
理由は非常に単純です。「迂回奇襲説」の根本史料である『甫庵信長記』は創作された軍記物(=歴史小説)なので、それを基に書かれた書物は全て信用できないと言うものです。
そして『甫庵信長記』に代わる根本史料として、それまで注目されてこなかった史料を提示しました。
その別の史料とは?ヒントは桶狭間検証その4で掲げた『甫庵信長記』の図にあります。
『甫庵信長記』1ページ目に「太田和泉守牛一集録」「小瀬甫庵道喜居士重撰」と記されています。
これは甫庵自ら「この本は太田和泉守牛一が纏めたものを私が改訂いたしました。」と言ってるってことですよね。
では「太田和泉守牛一」とは何者でしょうか?
太田牛一はWikipediaによると大永7年(1527年)生まれなので信長より7つ年上です。彼は長らく織田家臣団の中で弓衆として仕え、何度も信長と一緒に戦闘に参加しています。
また弓衆引退後も信長のもとで行政官僚として働き続けていたようで、近江の二つの郷の間に出した掟書きが残っています。*3
信長死後は豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→関白秀次という錚々たる人物に仕え、慶長18年(1613年)86年の生涯を閉じました。*4
彼は非常に几帳面な性格で、若い頃から色々な事柄を日記やメモに書き留め、そのすべてを保管していたようです。
そして晩年それまで書き留めていた日記やメモを基に信長の一代記を書き上げました。
それが『信長公記』です。