ここで少し話を桶狭間から離れ、信長の尾張統一の経緯について検証して行きたいと思います。
前回私は信長は「尾張全土の直接支配」と記しましたが、これは「信長の尾張支配の方法は、他の大名と違う。」との意味を込めて、こう書きました。
その理由を信長の生い立ちから説明していきましょう。
信長は織田弾正忠家備後守信秀の嫡男として生まれました。
でもなぜ信長が嫡男と分かるのでしょうか?
「何を当たり前のことを言うんだ。」と皆さんおっしゃられると思いますが、
実は、私はつい数年前まで、信長嫡男を疑っていました。弟の勘十郎が嫡男で、信長は庶兄ではないか、と考えていたのです。
それはなぜか?信長は幼少より父信秀と一緒に住まず、那古屋の城に守役を付けられ育ちました。これは信長の庶兄である織田信広と同じ扱いです。
対して弟の勘十郎は母土田御前と一緒に信秀の住む城に住み続けていました。
通説では土田御前は信秀の正室で信長の生母でもあることになっていますが、信頼のおける史料では信長の母の記述は無く、信長の母は信秀の側室だったのではないかと勘繰っていたのです。
実は「信長庶子説」は明石散人氏が著書『二人の天魔王』の中で唱えた説です。
この『二人の天魔王』は今から約30年前に発刊された書物である為、今では受け入れ難い説も多いですが、私が信長研究にのめり込む契機になった本です。角川文庫より重版が出ていますので、信長に興味がある方はぜひ一度お読み頂くことをお勧めします。既存の信長像を覆す記述に満ち溢れていますので。
Amazon.co.jp: 二人の天魔王 信長の正体 (角川文庫) : 明石 散人: 本
話が更に横にそれてしまいましたが、今では私は信長が嫡男だったと考えています。その理由は二つ。
1.信長が斉藤道三の娘を娶ったのが事実であると考えたからです。
嫡男でなければ道三が娘を(実の娘ではなく養女ですけど、であっても)嫁にやるわけないですよね。
2.父信秀の字名も信長と同じ「三郎」であることを史料から確認できたから。
一部の歴史家の先生方は信長の字「三郎」は信秀の三男だったから名付けられたと言ってますがそれは間違いです!
確かに鎌倉時代ぐらいまでは長男が「太郎」次男が「次郎」三男が「三郎」と名付けられることが多かったです戦国時代*1になると嫡男は父と同じ字を名乗るのが通例になっていました。
ですから信長は三男だから「三郎」では無く、嫡男だったから父と同じ「三郎」を名乗ったのであって、逆に言えば「三郎」を名乗れたのは、信長が信秀の嫡男だったと確定できます。
因みに信長の庶兄信広の字は「太郎」でも「次郎」でもなく「三郎五郎」です。
この字だけで信広が信長の兄にも関わらず嫡男でなかったことがわかりますよね。
但し信長は信秀の嫡男「である」のではなく、嫡男「だった」です。