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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

桶狭間検証その3ー信長と義元実際の兵力差は?

 

前回までで、尾張は当時日本有数の大都市で、信長はこの尾張を統一した段階で戦国有数の大大名になったと論じてきました。

戦国時代の兵力は一般に一万石で250人が目安とされています。(豊臣秀吉朝鮮出兵の際に各大名に課した兵数から割り出したようです。)

この目安で前に出した慶長3年の石高表を基に国別の動員可能兵力をまとめてみました。

上図を見ると最も多くの兵力を有する国は陸奥を除くと近江になっていますが、当時の近江は湖東一帯を浅井氏が、湖南一帯を六角氏が領有しており、湖西の大津は比叡山延暦寺の山門領と、支配域が分割されていました。

相対的に見て、この時代の尾張は最も多くの兵力を有する国だったと言えます。

信長は永禄2年(1559年)3月に上四郡守護代織田信賢尾張から追い出し、尾張全域の直接支配を成し遂げ、尾張一国の兵力約1万4千人を動員することが可能になりました。

一方今川義元の支配地域である駿河遠江三河3国の動員兵力は約1万7千人となります。

ここでみなさん「あれっ?」と思いませんか?

一般には桶狭間の今川軍は2万5千~4万5千と言われていますよね。現在の歴史学者たちも、殆どが今川軍2万5千との説をとっています。

しかし、この石高からの計算方式では到底2万5千は無理です。どっちが正しいのでしょうか?

私はこの石高からの算出兵力の方が実際に近いと考えています。と言うのも、2万5千の裏付けが希薄だからです。

桶狭間合戦を記した信頼できる歴史史料では今川軍の兵数を4万5千としていますが、この時代の歴史史料の兵数は概して誇大に書かれますので「2万5千ぐらいが妥当だろう。」との憶測で出された数字だとしか私には見えません。

また、「戦国初期の頃は1万を超えるような戦はまだ行われていなかった。」*1との説が最近出てきており、私もその意見に賛成です。

以上のことから桶狭間合戦は「弱小織田軍と強大な今川軍」の戦いでは無かったことだけは確かだと言えるでしょう。

 

*1:今川研究の第一人者である小和田哲夫氏は著書『戦国武将の生き方死にざま』

https://amzn.to/3UjZlffで「今川家の寄り親は最大3千人」と語っています。北条氏の合戦時の武将到着状には、「寄り親1人に従者2人」の計3人とされているので、この計算で行くと、今川の総兵力は9千人となります。