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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

信長はどのようにして尾張を統一したのか?その5-そして桶狭間へ

 

弟勘十郎を自害に追い込み、父信秀の重臣達全員を配下に収めた信長は、その勢いを駆って尾張守護の斯波義銀よしかね三河守護吉良義昭と謀反を画策した罪で追放しました。
更に岩倉を攻め、上四郡守護代織田信賢も追放し、ここに尾張全土の完全掌握を成し遂げました。
尾張を統一した信長は、慕っていたしゅうと斎藤道三あやめた憎っくき斎藤義龍のいる美濃に侵攻するかと思いきや、状況はそう単純には行きませんでした。
信長が織田一族と戦いを繰り広げている間に、尾張南部が今川義元に散々に侵食され、唯一の同盟関係である水野兄弟(緒川の信元と刈谷の信近)が今川方に屈しかねない危機が迫っていたのです。
万一水野兄弟が今川方についてしまうと尾張八郡*1のうち知多郡と愛知郡の南半分が今川領となり、そこを橋頭堡きょうとうほとして尾張国人領主達に調略を仕掛けてくるのが目に見えてます。
そこで信長は尾張統一後真っ先に今川方の鳴海城と大高城に付け城を築き*2、愛知郡南部の今川勢を鳴海・大高城に押し込めることにより、知多郡の水野兄弟との分断の解消を図りました。
ただ義元も黙っていません。信長に奪還された愛知郡南部の再奪還と鳴海・大高の孤立化解消を目指し、大規模な軍事行動の準備を始めました。
そして両将は桶狭間に突き進んで行くのです。

図:尾張八郡画図(西尾市岩瀬文庫所蔵)

*1:通常尾張八郡は海東郡、海西郡、中島郡、栗東郡、丹羽郡、春日井郡、愛知郡、知多郡を指しますが、この時代知多郡織田氏守護代を務める斯波氏の管轄ではなく、守護不在で水野氏が統治していました。 代わりに愛知郡北部と春日井郡南部に跨るあたりに山田郡が存在しており、下四郡守護代の織田大和守家が統治していました。(上図参照)

*2:鳴海城北側に丹下砦・善照寺砦を、大高城北側に丸根砦・鷲津砦を築きました。そして両砦の連携を図る繋ぎ砦として中島砦を構築しました。また尾張藩に献上された地誌である『張州雑志』ちょうしゅうざっしには大高城南側に水野氏が築いたとみられる氷上ひかみ砦・正光寺しょうこうじ砦が掲載されていますが、この両砦の存在は確定されていず、またあったとしても水野氏は桶狭間時点では、今川氏に対し敵対する姿勢を取っていないため、退去していた筈です。