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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

信長はどのようにして尾張を統一したのか?その4-父の代からの重臣達を屈服させた信長

唯一の味方であった義父斉藤道三を失い、絶体絶命の状態に陥った信長。
しかし、信長はここから僅か3年で尾張を統一してしまいました。
越前攻めの時と言い、本願寺攻めの時と言い、信長はその生涯において、幾多の絶対絶命のピンチに陥っていますが、私はこの時が最大のピンチであったと言いたいです。
何せ前回述べたように尾張中の殆どの武将たちが信長に敵対してしまい、信秀時代からの重臣のうち信長に付いたのは佐久間大学と佐久間信盛を始めとする佐久間一族*1だけだったのですから。
ただ信長は父信秀存命中より、領国内から多くの若武者達を集め子飼いの兵として養っていました。
一説では、信長子飼いの兵は2千人ほどいたと言われています(桶狭間古戦場保存会の方から聞いた話。出典不明)が、2千人はちょっと多すぎるのではないでしょうか?
ただ、信長は熱田と津島の湊を領有してましたので、多くの兵を養えるだけの財力を保持していました。
この頃(室町時代後期~戦国時代前半)の戦国大名達はまだ室町時代守護大名の統治形態を引き継いでおり、領内の国人領主*2の領有権を保証する(=本領安堵)かわりに戦力として働いてもらう形でしたので、大名達は自前の兵を殆ど持っていませんでした。
その為、大名達の力はそれほど強くなく、家臣達に背かれて殺されたり、追放されたりすることも度々ありました。まあ室町幕府でさえ、家臣間の力関係次第で頻繁に将軍が交代するほど弱体化していた時代でしたからね。
しかし信長は自分を見限り弟の勘十郎を担ぎ上げる重臣達を、自分が養ってきた自前の兵力を使い、逆に攻撃を仕掛け(稲生の戦い)、これに勝ち、自分に有利な和平に持ち込みました。
そしてここからの信長が凄いんです。戦に負けた重臣達は、続々と信長に頭を下げて忠誠を誓ってきました。信長は簡単にこれを許し、全員自分の家臣団に組み入れていったのです。
皆さんは「信長は何て優しいんだ。」と思うかもしれませんが、これにより重臣達は信長に対し一生頭が上がらなくなってしまいました。
私は信長が優しさで重臣達を許したとは思えません。彼は父の代からの「目の上のたんこぶ」を力で抑えこんで、自分の思いのままに使えるようになったため許したのです。
これにより尾張には大名と同等に近い力を持った国人領主が消滅し、他国では類を見ない信長による絶対君主制が誕生しました。
重臣達の多くを取り込むと、信長は仮病を装い、弟の勘十郎に対し「自分はもう長くないから後を託すので面会に来てほしい。」と言います。もちろん勘十郎は九死に一生を得た気分で、喜んで兄に会いに行きました。
そして清州城にて易々と切腹させられてしまったのです。

*1:佐久間一族は一貫して信長に付いていた唯一の重臣でした。しかし信長の佐久間一族に対する扱いは酷いものでした。大学は桶狭間の戦いで丸根砦で援軍を得られず、かつ撤退も許されず見殺しにされました。信盛は譜代の重臣にも関わらず、勘十郎の家臣であった柴田勝家だけでなく、新参者の木下藤吉郎明智光秀より格下に置かれました。歴史の先生方は信長の実力主義登用の典型的例として挙げていますが、信盛は六角氏や三好義継等との戦いや比叡山焼き討ちで大きな武功を上げており、勝家等と遜色ない実力を持っていたはずです。そして散々信長にこき使われた挙句高野山に追放されました。このように信長は自分の家臣団の中で突出した権力を持ちそうな人物を虐げることによって自分の絶対性を維持し続けたと私は考えます。

*2:在京の名目上の領主である中央官吏かんりに対して在地の実質上の領主を指す。Wikipediaより