長らく横道に逸れて尾張統一の過程を論じてきましたが、桶狭間に話を戻しましょう。
今回は、「信長はなぜ桶狭間で今川義元に勝てたのか?」の疑問に対して昔の人々はどう考えていたのか?その推移を追ってみたいと思います。
現在では、「なぜ信長が勝てたのか?」は大きな謎として扱われていますが、実は江戸時代から太平洋戦争後までは「謎」ではありませんでした。
答えは1つしかなかったのです。その答えとは、、、、
今日で言う「迂回奇襲説」です。要は、信長は義元が桶狭間で油断して休憩しているところを少人数で密かに迂回し、背後から本陣を急襲した。と考えられていたのです。
なぜ「迂回奇襲説」が長らく信じられて来たのでしょうか?
犯人は江戸時代に発刊された軍記物(=歴史小説)でした。
戦国時代は戦乱の世であったため合戦に関する書物は出回りませんでしたが、徳川家康により天下が統一され平和な時代が訪れると、人々は戦国時代の合戦に興味を持ち始めました。
また木版印刷の発展により江戸や上方の庶民達にも簡単に本が手に入るようになりました。
そんな時代の中で信長の一生について書かれたある本が大ベストセラーになりました。そのある本とは、、、
小瀬甫庵が書いた『信長記』通称『甫庵信長記』*1です。
甫庵は元来医者で、安土桃山時代から医術の本を刊行していました。
彼は当時一般に普及しだした木版印刷に目を付け、自分の著書を版元(現代の出版社のようなもの)に売り込み、大量に印刷をし、大量に販売しました。
それまでの書物は殆どが写本、つまり作者からその著書を借りて書き写し、書き写した物をその人の知り合いがまた書き写す。という体裁を取っていたため大量に世の中に出回るということは無く、庶民達が書物を目にすることは殆どありませんでした。
『甫庵信長記』は最初に印刷された信長に関する書物でしたので、江戸期の庶民達はこの本の記述全てが史実であると認識してしまったのです。
しかしこの本はあくまでも軍記物(=歴史小説)です。江戸期の歴史学者達はこの本をどう評価したのでしょうか?
残念ながら彼らは「甫庵信長記」における桶狭間の記述の真実性を一切検証せず、事実として鵜呑みにしてしまいました。幕府が編纂した「朝野旧聞裒藁」でさえ迂回奇襲を既成事実として記述してしまったのです。
このように江戸期は一貫して「迂回奇襲説」が史実として認識されていましたが、明治以降はどうなったのでしょうか?