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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

桶狭間検証その2-信長は尾張一国の小大名?②

 

戦国時代最も豊かだった国はどこだと思いますか?

ネットで調べると慶長3年(1598年)に行われた検地史料がありましたので表にしてみました。

図1-慶長3年国別石高表

上図を見ると東北全体が入る陸奥は例外として、石高1位は近江、そして2位が尾張で約57万石となっています。

対して今川は駿遠三の3国合計で約70万石で、尾張1国とそれほど差がありません。

戦国時代の尾張は日本有数の穀倉地帯だったのです。

当時の人口が分かる史料は発見できなかったのですが、(戦国時代は人口の増減が激しかったので人口推計は無理でしょうね。)石高と人口は相関関係が高いので尾張は日本有数の大都市だったと言えます。

ちょっと待て京の都があるじゃないか?とおっしゃる方も多いと思いますが、当時の京都は応仁の乱以降戦乱が続き、街全体が壊滅状態でした。

芥川龍之介の「羅生門」を読めば当時の京都の状況がよく分かりますよね。

さらに尾張商業都市としてもたいへん発達してました。

当時は伊勢湾交易が非常に盛んで津島、熱田の港には日本各地からの物資が集まり、尾張内で消費されるだけでなく、ここから陸路で美濃や近江そして京の都に運ばれて行きました。

信長の父の信秀はこの津島・熱田の港から上がる莫大な収益をバッグにして、守護代の三奉行の内の一人と言う低い身分でありながら守護代を上回る力をつけていきました。

大都市と言えば、今川の駿府が、京都から貴族や文化人たちを多く呼び寄せ華やいでいましたが、あくまでも地方の文化都市であり、商業の繁栄度では津島・熱田には遠く及ぼなかったと私は考えています。

信長は尾張一国を統一した段階で、義元と肩を並べる戦国有数の大大名になったのです。