前回私は信長に「自分一人の力で尾張を統一してやるという強い意志を感じた。」と書きました。
信長が一見無謀に見える、このような意思を持てたのには、理由があります。
それは尾張の外に強力な味方がいたからです。そう美濃の蝮と呼ばれた男、義父の斉藤道三です。
道三は息子の義龍と折り合いが悪く、娘婿の信長を気に入っていました。
守役の平手中務が切腹した際には、富田にて会見をし、尾張中に信長の後見人であることを強くアピールしましたし、信長が村木砦に出兵する際には、居城那古野城に留守居の兵を貸し出しています。
しかし何故そこまで道三は、信長に肩入れしたのでしょうか?
歴史専門家の先生たちは、道三が信長の才能に惚れ込んだ為としていますが、戦国最大の梟雄が、何の実利も無しに信長に味方するでしょうか?
道三は天文23年に家督を嫡男の九郎義龍に譲り、出家しますが、次第に義龍を「愚か者」と断じ、弟達の方を寵愛するようになります。
それを感じ取った義龍は、父と敵対するようになり、美濃の重臣たちを次々と味方に引き入れて、道三の影響力を弱めていきます。
義龍は更に、尾張において信長と敵対する勢力にも、調略の手を伸ばして行きました。
ですから、道三にとって信長は数少ない強力な味方であり、彼が失脚すれば尾張への影響力低下だけでなく、美濃での自分の地位さえも、危うくなる状況でした。
まあ、下剋上*1で油売りから美濃の戦国大名にまで上り詰めた道三のことです。
信長に尾張を統一させ、舅として実質的に尾張を支配しようと考えていたとしても不思議ではないでしょう。もしかしたら信長は暗殺され、斉藤道三が美濃と尾張2国を統治する戦国大名になって、今川義元と桶狭間で戦っていたかもしれません。
斉藤道三の後ろ盾で信長は守護代織田信友を切腹に追い込み、清州城に入城し、尾張下四郡の直接支配を成し遂げます。
しかし信秀死後から5年後、信長にとって最悪の事件が勃発してしまいました。
弘治2年(1556年)ついに息子義龍が兵を起こし、斉藤道三を討ち取ったのです。
これによって信長は大きな後ろ盾を失い、尾張内で孤立するようになりました。
まず、弟の勘十郎が信長直轄領の篠木三郷を横領し、公然と反旗を翻しました。
そして前回説明しましたように父信秀の代からの重臣達の殆どが、勘十郎側に付きました。
また、上四郡守護代織田伊勢守家も斉藤義龍と同盟を結び、信長と明確に対立するようになりました。
庶兄の三郎五郎も義龍と共謀し、清州に美濃の兵を引き入れようとしました。
文字通り信長は四面楚歌の状態になったのです。