前回私は織田信長は嫡男「だった」と過去形にしました。
こう書くと皆さんは、信秀死後重臣たちが「うつけ」の信長に愛想をつかし、弟の勘十郎*1を嫡男に担ぎ上げようとしたことを言ってるんだと思われるでしょうが、少し違います。
私は「信長自身が信秀の跡を意識的に継がなかった。」と考えています。
信長は信秀死後、父が名乗っていた「弾正忠」を名乗りませんでした。織田氏では今まで誰も名乗らなかった「上総介」を名乗り、それを見た弟の勘十郎が「弾正忠」を名乗り始めても、信長は黙認していました。
私はこの「上総介」の名乗りに「父の後を継がず、自分一人の力で尾張を統一してやる」との強い意志を感じます。
多くの歴史家の先生たちが「信長と信秀の仲は悪くなかった。」と言ってますが、私には何を根拠にそう言ってるのか全く理解できません。
信長は信秀の葬儀(正確には「銭施行」)で父の位牌に抹香を投げつけてますし、信秀の重臣達は殆ど信長と敵対するか、亡くなっています。
詳しく述べると、信長の後見人4人のうち
平手中務は息子の五郎右衛門が信長に馬を献上しなかったため辛く当たられ、それを苦に切腹してしまいました。*2
林佐渡守は信秀の死後弟の勘十郎を担ぎ上げ、弟美作守と共謀し、信長を暗殺しようとさえしました。
青山與三左衛門は信秀の代の美濃との闘いで討ち死にしていて、信長の代にはこの世にいません。
内藤勝介は信秀死後信頼できる史料に一切記述が無く、消息不明ですが、少なくとも信長の味方に付かなかったことは確かです。
このように信長は信秀死後、譜代の家臣たちを味方につけず、ほぼ四面楚歌の中で、尾張統一を成し遂げたのです。
では信長はどうのようにして、誰を味方にして、尾張の覇者にのし上がって行ったのでしょうか?