ようこそケビンの部屋へ

自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

私見その3ー信長と義元の行軍時系列表を作成してみた②

前回私は織田軍と今川軍の行軍時系列表を作成し、今川義元が大高城を出た時織田信長はまだ丹下砦にいた為、信長来襲を予期できていなかった。との説を提唱しました。
今回は信長が丹下砦を出て桶狭間山の麓に至るまで義元は信長の動きをどう認識していたのかを行軍時系列表から検証してみたいと思います。

図1再掲:織田・今川行軍時系列表

義元が輿に乗ってゆったりと大高道を通っている間に信長は丹下砦を10:50に出て(⑧)善照寺砦に向かいます。実はここが私の説の一番の難所なのです。

図2:丹下砦→善照寺砦経路と鳴海城からの距離

過去の投稿でも触れましたが*1丹下砦から善照寺砦への道筋は鳴海城から500m程しか離れていないのです。(図2)
鳴海城主の岡部元信がこの動きを察知しない訳ありません。そして今川本陣へ伝令を飛ばす筈ですから義元が信長来襲を知らないって事はあり得ないとなります。
しかし、それでも私は今川義元のその後の行動を見ると信長が来ていることを知っていたとは思えないのです。
義元が桶狭間山に11:00に到着(B)するのと同じ頃、信長は善照寺砦に入ります(⑨)。そしてそれを見た佐々・千秋達300人が幕山・高根山あたりに布陣していた今川の部隊に突撃し、玉砕してしまいます。*2
義元はその戦いを桶狭間山で見分し、勝利を祝って謡をうたっています。ここに私は大きな疑問を感じるのです。もし信長が近くまで進軍して来ているのを義元が把握していたなら、信長に対しどう対応するかを決めなければなりません。こんな小さな勝利で謡をうたっている場合ではないのです。もしかして信長本隊を撃破したと勘違いしたのか?それなら即座に山を下りて見分に赴く筈です。
信長達は11:10に善照寺砦を出、(⑩)11:20頃中島砦に入ります。(⑪)
桶狭間山からはこの行動は見えませんが、佐々・千秋を蹴散らした部隊がいる場所からは中島砦に入った信長本隊を視認することができます。普通なら彼らも義元に信長来襲を報告し、佐々・千秋と同じように迎撃するか指示を仰ぐ筈です。

図3:『三河物語』石河六三郎記述部分(雑誌集続国民文庫)

しかし彼らが動いた痕跡はありません。鳴海の岡部元信と言い、幕山・高根山の部隊と言い、今川軍は信長に対し全く何のアクションも起こしていません。信長は何の圧迫も受けず、まさしく『三河物語』で大久保忠教ただたかが語っているように「思いのままに」(図3の①)南尾張一帯を駆け巡っています。*3
義元が信長の動きを把握してなかったと仮定すると、その後の出来事も無理なく説明できます。
行軍時系列表を追ってい行きましょう。但しここから先は『信長公記』にも他の史料にも書いていない私一個人の私見となりますのでご了承ください。
信長は11:30頃中島砦を出て丸根・鷲津砦近辺に残っている今川兵に攻撃を仕掛けます(⑫)。*4(幕山・高根山の兵達は信長が南側大高方面へ向かったので、こちらにはやって来ないと判断し義元に報告しなかったとは考えられないでしょうか?)
鷲津・丸根の兵達は信長一行が襲い掛かって来るのを見て我先にと大高城へ退去します(図3の②参照)。そこで信長は東に方向を変え幕山・高根山に向かうのが12:00頃(⑬)。
この辺りは桶狭間まで丘陵が重なり合う複雑な地形となってます。信長一行は山間を縫うようにして進軍して行ったので今川方からは全く見えません。その後12:50に桶狭間山の麓*5に辿り着いた途端「俄急雨むらさめ石氷投打様に」義元本陣に降りかかって来ましたので信長を認識するどころではありませんでした。*6
そして雨が上がった13:20織田信長は山を駆け上り、今川義元本陣へ襲い掛かるのです。
このように時系列で見てくると終始一貫信長の行動は今川本隊からは見えてません。しかし鳴海の岡部元信や幕山・高根山の部隊は信長を視認していますし、大高の松平元康達も鷲津・丸根砦から撤退してきた部隊から信長来襲を聞いている筈です。しかし彼らは今川本隊に報告をしたのでしょうか?私には今川軍には情報を共有すると言う意識が欠如していたとしか思えません。
今川軍は旧態依然とした組織であった為上意下達の指揮系統しかなく、部下から大将に情報を伝達すると言う習慣が無かったとのではないでしょうか?
今川義元織田信長来襲の情報を得られなかったので桶狭間織田信長に討たれた。
と私は考えています。

*1:7/21投稿『信長公記』を読み解くその12-何故今川義元桶狭間山に陣取ったのか?②

*2:佐々・千秋の突撃に関しては8/11投稿『信長公記』を読み解くその15-佐々と千秋は何故玉砕したのか?で詳細に論じていますのでそちらをお読みください。

*3:彦左衛門も『信長公記』のこの部分を読んで「義元何しとんだらあ~はよ信長を攻めりん」と感じていたのでしょう。

*4:信長達が中島砦から丸根・鷲津砦方面に向かったと考えた理由は9/15投稿私見その1ー信長はどこへ行った?②で詳しく論じていますのでそちらをお読みください。

*5:厳密にいうと桶狭間山の麓は現在の桶狭間古戦場公園辺りですが、ここからは今川本陣まで100m程しかないので流石に近すぎて気付かれない訳ないでしょう。私は観光案内所がある大池のほとりあたりではないかと考えています。

*6:よく信長は暴風雨に紛れて今川本陣に近づいたとの説を目にしますが、雨が降り出したのは「山際迄御人籔被寄候」時であり行軍中には降ってません。