ようこそケビンの部屋へ

自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその14ー家康は大高城兵糧入れに苦労したのか?

信長公記』には「今度家康は朱武者*1にて先がけをさせられ大高へ兵糧入鷲津丸根にて手をくだき辛勞しんろうなされたるによりて人馬の休息大高に居陣也」と書いてあります。(図1)

図1:『信長公記首巻』家康記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)

この記述が典拠になり、江戸時代以降「神君兵糧入れ」として徳川家康(当時は松平元康)の大手柄として語られるようになります。
通説ではこの時の兵糧入れは鷲津・丸根砦からの攻撃を避けながら入れなければならない非常に困難な役目であったされています。
しかしよく考えると、これは少しおかしな話です。兵糧を入れるのに織田方の砦が邪魔なのなら、先に砦を落としてから入れればよいのです。翌日には僅か数時間で両砦を陥落させているのですから。
なのに砦を落とす前に兵糧を入れたと言うことは、鷲津・丸根砦が兵糧入れの大きな障害にはなっていなかったと考えるべきです。

図2:桶狭間神明社にある大高道図案内板

過去の投稿でも論じましたが*2、大高道から一番近い丸根砦まで200m以上あるので砦からの弓や火縄銃での攻撃は有効ではありません*3(図2)。ですので砦から出て攻撃するしかないのですが、砦の守備兵は150人程*4ですので小荷駄隊に少しの歩兵を付けるだけで簡単に兵糧入れを実行できる筈です。*5なお大高城の南には水野氏が築いた氷上砦と正光寺砦があったとの説もありますが、この時期水野氏は少なくとも表向きは義元と敵対する姿勢を見せていないので、砦の兵は撤退している筈です。
それにしても何故大高城に兵糧を入れたのでしょうか?通説では信長が付城つけじろを築いたことで物資を入れる事ができなくなり、城兵達が困窮した為とされていますが、先程説明したように鷲津・丸根砦が大高城への物資搬入の障害になっていたとは思えません。
私は義元は大高城の守備兵を増強するために兵糧を入れたと考えています。*6そして自身は沓掛あたりに居陣することにより、南尾張一帯から織田勢を一掃しようとしていたのではないでしょうか?

図3:今川義元三河守任官史料(東京大学史料編纂所『史料稿こう本』より抜粋

義元は桶狭間に進軍する前に家督と官位の「治部大輔じぶたいふ」を嫡男の氏真に譲り、自身は「三河守」に任官されています。(図3)
この事から義元は駿河遠江の経営は氏真に任せ、自分は三河の安定化と尾張への侵攻に長期的に取り組むつもりであったと考えられます。*7
信長公記』には「手を碎き御辛勞」と記述されており、如何にも家康が大高城兵糧入れと鷲津・丸根砦の攻撃を苦労して自分達だけで行ったように書かれていますが、前回指摘したように「御敵今川義元~陣を居られ候」までは後から追加された文章である可能性が高いです。
信長公記首巻』には「家康」の名は2箇所でしか登場していません(図1の①と②)。太田牛一織田家の家臣ですので織田方の情報は容易に取れますが、今川方の情報はすぐに取れないでしょう。またこの時期はまだ「元康」だったのに「家康」としていることからも、この部分は徳川の世になってから書き加えられたと考えるのが妥当でしょう。
なのでこの部分の文章は「徳川家康」に忖度そんたくして誇張して書かれていると考えるべきです。
「大高城兵糧入れ」は大して困難な仕事でも、松平元康勢だけで行われたものでも無いと私は考えています。

*1:朱武者に何か特別な意味があるのか調べましたが分かりませんでした。よって文字通り朱(赤)色の甲冑を着た武者とするしか無いのですが、兵糧を搬入するのに何故そんな派手な格好をするのか大いに疑問に残ります。ましてや昨年の大河ドラマ「どうする家康」では金色の「金陀美具足きんだみぐそく」を着けて兵糧入れを行っていますが、これは飾り物として後年作られたもので、こんな派手な具足を着けて「桶狭間」を戦ったと書かれている史料は勿論ありません。

*2:5月26日投稿の【補論】その2ー今川義元出陣の目的は何だったのか?をご覧ください。

*3:8/4追記ー大高道の道筋は丸根砦のすぐ下を通る県道50号を通る説もあるようです。確かに今昔マップで明治24年(1891年)の国土地理院地図を見ますと県道50号線はありますが、神明社案内板の道の部分は田畑しかありません。しかし例え大高道が丸根砦の真下を通っていたとしても、僅か150人程の守備兵では大した障害にならなかったと私は考えます。

*4:丸根砦の広さは張州雑志に東西20間南北15間と書かれており、面積にすると約1000平方mとなります。兵士1人で最低1坪3.3平方mは必要(約最大収容人員約300人)、更に櫓などの設備がいるので半分の150人としました。

*5:「大高城兵糧入れ」に関しては『三河物語』が永禄元年、幕府公式史料の『朝野旧聞裒藁ちょうやきゅうぶんほうこう』や『徳川実紀じっき』は永禄2年のこととしています。私は大久保彦左衛門や幕府お抱え学者達が桶狭間前日だと簡単に兵糧を入れれる為、年を前倒ししたのだと考えています。

*6:10/17追記ー再度考察したところ、義元が18日大高城に入ったとすると織田軍の来襲で長期間在城する可能性がある為兵糧入れは絶対に必要だと思い至りました。

*7:よく義元は丸根・鷲津砦を落とした後、すぐに清州に向けて進軍しようとしていたと語られますが、戦国時代前期において他国への侵攻はそんなに簡単にできるものではありません。桶狭間後の信長も美濃を攻略するのに7年の月日を擁しています。