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自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

『信長公記』を読み解くその18ー信長はどこへ行った?①

いよいよ「桶狭間の戦い」の考察も佳境に入ってきました。本日より『信長公記首巻』最大の謎について考えていきたいと思います。

図1:『信長公記首巻』桶狭間山攻撃部分(改訂史籍収攬収録町田本)

信長は頸を持参して合流してきた前田叉左衛門(利家)達に訓示を述べた後、中島砦を出て「山際迄御人籔被寄よせられ」(図1の①)ますが、この「山際」がどの場所を指すのかは書かれていません。
ただ、この文章の後すぐに「すハか々れ」と今川義元に襲い掛かってますので(図1の②)、義元が陣取る「桶狭間山」のふもとだと考えるのが普通でしょう。
しかしそうだとすれば、信長はどうやって桶狭間山まで辿り着いたのでしょうか?
中島砦から桶狭間山まで直線距離でも3kmあります。駆け足でも約20分かかる距離です。なのに『信長公記』はまるで中島砦から桶狭間山の麓までワープしたかのように、その間の描写が一切ありません。
更に中島砦と桶狭間山の間には幕山や高根山等の丘陵群がいくつも重なり合っていて、その辺りには初戦で佐々・千秋の軍を撃退し(図1の③)*1意気上がっている今川軍が滞陣している模様です。直進すればこれらの部隊のうちのいくつかと戦闘になった筈なのに、戦いの様子は描かれていません。ならこれらの部隊を避けて幕山・高根山の丘陵群を迂回したのか?*2
この事に対し、かつての「迂回奇襲説」の提唱者達は「信長が隠れて義元本隊に忍び寄り、騙し討ちのような形で義元を討ち取った為、家臣である牛一は信長の進軍経路を書けなかった。」と言っていますが、『信長公記』が世に出回ったのは江戸時代徳川の世になってからですので、太田牛一は家康に配慮した記事は書いていることはあっても、あからさまに信長に配慮した記事は書いていません。

図2A:桶狭間古戦場公園の案内板(古戦場保存会作成2024年6月12日撮影)

では近年の研究者達はどのように考えているのか?桶狭間古戦場公園に信長がどのような経路を辿って桶狭間山の今川本陣に迫ったのかを記した案内板が立っています。(図2A)
この案内板は郷土史研究家の梶野渡氏*3が研究したものに小和田哲男先生*4を始めとする歴史家の先生方の意見を取り入れて「桶狭間古戦場保存会」の方々が作成した物で、現在多くの歴史家の方々が信長はこの案内板のように進軍したと説明しています。

図2B:桶狭間古戦場公園案内板拡大図

しかしこの案内板ははっきり言って間違ってます!何故そこまで断言できるかって?
図2Bをご覧ください。信長は中島砦から近崎街道を通って直接桶狭間山に向かわず、間道を使って太子ヶ根から釜ヶ谷の丘陵地帯を通り、義元の居る桶狭間山に突撃しています。
これじゃあ「迂回奇襲説」と同じじゃないですか⁉私には信長が義元以外の今川軍と戦闘にならないよう、このような進軍経路にしたとしか思えません。
更に『信長公記』は「東へ向て桶狭間山の今川義元に襲い掛かったと書いています(図1の④)。対して案内板では北側の釜ヶ谷かまがたに付近から「南に向かって」襲い掛かっています。方角が全く合っていません。これも桶狭間山の麓から中腹あたりに陣取っていると考えられる義元の護衛部隊を避けるため、側面から攻撃したことにしたとしか思えません。

図3:信長公記池田本(牛一自筆本)巻13奥書(田中久夫氏著信長公記成立考より抜粋)

そもそも太田牛一は中島砦から桶狭間までの信長の行動を事実を隠そうとしてわざと書かなかったのでしょうか?私は牛一の性格から考えて単に分からなかったから書かなかったと考えています。*5
ただ、牛一は昔から多くの人から話を聞き、日記のような形で残していました(図3の1参照)。桶狭間の戦いに関しても、参戦した多くの信長の家臣達に取材をした筈です。なのに進軍経路を書けなかったと言うことは、
信長の進軍経路に対し厳重な箝口かんこう令が敷かれていたのでしょうか?

*1:佐々・千秋については『信長公記』を読み解くその15-佐々と千秋は何故玉砕したのか?で詳しく論じていますのでご覧ください。

*2:近年まで「迂回奇襲説」が支持されてきた理由の一つは『信長公記』に信長が義元と当たるまで他の今川軍との戦闘の様子が一つも描かれていなかった為だと私は考えています。

*3:1919年(大正8年)名古屋市緑区桶狭間に生まれ。自身が生まれ育った町で起こった戦いに興味を持ち、独自で「桶狭間の戦い」の研究を始められます。梶野氏の功績は非常に大きく、『信長公記』を始めとした多くの史料を読み解き、「桶狭間山」を豊明市栄町にある標高64.9mの地点にした経緯を論理的に説明した上で、本陣は山頂の少し下がった所にあったとの説を提唱されています。この説は氏の研究に賛同して立ち上がった「桶狭間古戦場保存会」の方々に受け継がれ、現在会の方々が桶狭間古戦場公園を中心に多くの場所に案内板を立てる等の活動を精力的にされています。なお梶野氏の著書については前回投稿の注釈で触れていますのでお読みください。

*4:静岡大学名誉教授。小和田先生に関しては7/24投稿【補論】その4ー簗田出羽守とは何者?で詳しく述べてます。

*5:太田牛一は自筆本である『信長公記池田本』の奥書で「創作したものは無いです。有った事は除かず素直に書き、無かった事を書き添えていません。」(図3の②)と宣言しています。